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追悼・中西太

「監督、選手の関係のときはケンカをしたこともあったと思うが、あなたの訃報を聞き、涙を流し、悲しみ、感謝している。いい人生だったんじゃないかな」/追悼・中西太【野村克也を語る(中編)】

 

人生の財産は人との出会いだ


1957年パ表彰式。左から最優秀防御率、最多勝の稲尾和久[西鉄]、首位打者の山内和弘[毎日]、本塁打王の野村[南海]、打点王の中西[西鉄]、新人王の木村保[南海]


 5月11日に亡くなった元西鉄の中西太さん。生前、大変お世話になり、何度となくインタビューもさせていただいた。時々にはなるが、それを紹介していこうと思う。

 今回は2020年2月11日に元南海ほかの野村克也さんが亡くなった際、追悼号での取材の後編。新型コロナもあって、直接お会いしての取材は最後だった。読み返すと、もっともっと話を聞きたかったと、あらためて思う。



 選手をやめたあとの野球人生は、まったく違う。私はヤクルトにコーチとして呼ばれ、その後、日本ハムで監督にはなったが、三原脩さんにクビにされ、これが転機になった。

 自分は監督じゃなく、コーチのほうが合っていると思ったんだ。「ファースト」、「セカンド」と言えば、私は監督を支えるセカンドを選んだ。今でも2はラッキーナンバーのようなものよ。

 野村君は違った。長く評論家をやって平成2年からヤクルトの監督になったが、そこからずっとファーストを求め、いろいろな球団でボロボロになるまでやった。監督としての信念もあるし、決断力もある。嫌なことも言えるしね。監督に向いていたんだろう。

 彼が評論家や監督として野球を理論で考えているとき、私は実際論で選手と一緒に汗を流しながら、こういうことをさせたら、こう変わるんだという発見をして、選手と一緒に成長していった。

 好対照だったと思うが、共通点があるとすれば、野球が好きで、野球しかなかったところかな。あとは、いろいろチームに行って苦労したのも同じ。不思議と接点もあって、時期はずれとるが、2人ともヤクルト、阪神にいたことがある。

 野村君はヤクルトで、やれ、再生工場だ、ID野球だと言われたが、われわれが耕したあとに来たんだけどね(笑)。まあ、功は誰でもいい。チームが強くなれば、誰のおかげでもいいんだ。

 ブレイザーとの出会いもある。私は彼がカージナルス時代、日米野球で出会ったんだが、のちに南海に来て、やめてからは野村君の下でヘッドコーチをやった。相手のクセの見抜き方に長け、シンキングベースボール(考える野球)で日本の野球を変えた男だ。

 彼が野村野球の基礎をつくったと言ってもいい。私も彼が阪神の監督になったとき、誘われてコーチになった。まあ、あそこでは大変な思いをしたけどね(笑)。

 私はいつも思う。人生の財産は人との出会いだ。私は金持ちにはなれなかったが、その財産だけはたくさんある。

 野村君もそうじゃないかな。彼は私と違って、お金もたっぷりあったかもしれんが(笑)、苦労してあちこちの球団を渡り歩く中で、たくさんの出会いがあったはずだ。あと沙知代さんとの出会いも大きかったと思うよ。それでまた、野村君の出会いが広がった。

 日本中に野村君の教え子がいる。たぶん、余計なことも言う人だったから、監督、選手の関係のときはケンカをしたこともあったと思うが、今は、あなたの訃報を聞き、涙を流し、悲しみ、感謝している。

 いい人生だったんじゃないかな、野村君。
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