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逆転野球人生

元本塁打王・大島康徳が37歳でのトレードをきっかけに日本ハムで史上最年長2000安打を達成【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

絶頂期に起きた事故


70年代後半から80年代にかけ、中日の主力打者として活躍した大島


「そんな記録なんかいらんよ。オレはうれしくも何ともない」

 かつて新記録を作ったにもかかわらず、そんな怒りのコメントを残した選手がいた。中日時代の大島康徳である。通算代打本塁打16本のセ・リーグ記録だったが、「ホームランを、代打で打つしかない自分が悲しいよ」と、バリバリのスタメンでいられない自分への苛立ちを隠そうとしなかった。

 中学時代までバレーボールに熱中しており、中津工業高で野球を始めて、わずか2年半で中日ドラゴンズから1968年ドラフト3位指名を受けた。のちに名球会入り選手を7名も輩出し、空前の当たり年と言われるドラフトで、中日の1位指名はあの星野仙一だった。高校では4番エースを務めた18歳の大島は、場外アーチを連発する身長182cmの大型スラッガーとして将来を期待される逸材だったが、初任給は月6万円の年俸72万円。この金額は同期の下位指名選手より安いと本人が知るのは入団後しばらくしてからのことである。反骨精神に火がついた大島は、プロ3年目のヤクルト戦でホームランを含む3打点の鮮烈デビュー。中日が巨人のV10を阻止して優勝した74年には、長嶋茂雄の引退試合でVパレード参加の主力組が不在だったこともあり、大島が後楽園のグラウンドでミスターへ花束を渡す大役を務めた。

 76年はシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。「一発長打の大島くん」と人気者になり、背番号5に出世したプロ9年目の77年には打率.333、27本塁打で三塁レギュラーを掴む。79年には自身初の130試合フル出場で「3割、30本、100打点」をクリア。159安打はリーグ最多だった。この年は主に一塁を守り、ベストナイン受賞の王貞治(巨人)より大島が打撃三部門すべて上回っていると、物議を醸した。29歳で迎えた絶頂期。そんな時、事件が起きる。自動車事故を起こしてしまうのである。

「大島は14日の午前2時過ぎ名古屋市東区で中央分離帯に激突。全身打撲の上、右手中指を骨折、左眼に異物が入るなど、当分は出場不能」(『週刊文春』80年4月24号)

 実はこの時、大島の左眼には車に備え付けのシガーライターのつまみが埋まり、病院でそれを聞かされた瞬間、「自分の野球人生は終わった」とさえ覚悟する重傷だった。だが、金属片は眼球を奇跡的にそれており、著書『振りきった、生ききった「一発長打の大島くん」の負くっか人生』(中日新聞社)によると、緊急手術を担当した医師も「あなたは運の強い人ですね。これだけの事故を起こして、失明しない人を私は見たことがありません」と驚いたという。

37歳で日本ハムへトレード


 チームに迷惑をかけまいと事故後、三週間で戦列復帰したが、けじめをつけるため選手会長は辞任した。文字通り九死に一生を得た大島は、82年にリーグVに貢献すると、83年は36本塁打で山本浩二(広島)とともに本塁打王獲得。84年にも130試合すべてで四番打者を務め、30本塁打を放った。まさにミスタードラゴンズである。当時としては珍しい30代を過ぎても独身で、週べ誌面でも度々自らネタにした。小林繁との対談では、「30ぐらいで結婚してもいいなと思ってたんだけど、なかなかできなくて。まあいいだろう、これは縁の問題だから、いつかあるだろうと思ってたけど、ぜんぜんないんだよね(笑)」なんて嘆いてみせ、あるシーズンでは新年の抱負を聞かれると、「今年は、ダレがなんといっても結婚する。とにかく気がついたら34歳だもんね。いくらボクでもアセってきますよ」なんつって野球とは全然関係ない決意表明をかます大島くんであった。

 一方で30代中盤を迎え、「彼の野球は打つだけ。守備や足は買えない」(山内一弘監督)とDHのあるパ・リーグへのトレード話が度々、スポーツ紙を賑わせた。言いたいことは言う性格の大島は、オフの契約更改で、若手に負けないようにとフロントから檄を飛ばされ、「冗談じゃないよ。アイツをライバルにするようなら、オレ野球をやめちゃうよ」と怒ってみせたが、球団からの評価も決して高いものではなかった。85年1月に仲の良い田尾安志西武へのトレードが決まった際、「オレの身代わりになった」と大島はつぶやいたほどだ。

 右足指を痛めたこともあり、ホームラン数は年々減少。同期入団で兄貴分として慕っていた星野仙一が新監督に就任した87年も、15本塁打に終わった。セ・リーグ代打本塁打記録を作りながら、「うれしくも何ともない」と答えたのもこのシーズンのことだ。そして、オフになると星野監督から電話で「ヤス、ちょっと来てくれないか」と自宅に呼び出される。

「ヤス、悪いけど日本ハムにトレードや。受けるか受けないか、今、決めてくれ」

 日本ハムファイターズへのトレード通告だった。でも、なんで今すぐ? 「あぁ、俺、明日からアメリカへ行くから」ってそれはあんたの都合やないか……と驚くも闘将星野には誰も突っ込めない。気が付けば中日一筋19年、もう37歳だ。一瞬、辞めることも頭をよぎったが、私生活では念願の結婚をしたばかりで、愛妻のお腹には第一子がいた。大島は結論を持ち帰り、妻の実家のある都内で、来季から開業する東京ドームでのプレーを決断するのだ。星野監督は前年に大型トレードで落合博満を獲得。大島や平野謙ら自身の現役時代を知る主力陣を放出することで新しいチームを作り上げようとしていた。田中富生大宮龍男との2対2の交換で曽田康二と日本ハムへ。だが、移籍を決断した大島は意外な問題に悩まされる。

東京の住宅事情にあきれ顔!?


 1988年、ニッポンは未曾有の好景気へ突入。東京の地価は世界一と言われ、バブル絶頂の東京の家賃に大島も度肝を抜かれた。雑誌『宝石』88年3月号の「私のマイホーム獲得作戦」特集で、「東京の高家賃に怒る日ハム大島選手の誤算」記事が掲載されている。いい物件があると不動産屋から紹介されるのは8億円や2億円の超高級マンションばかり。「賃貸ならお手頃な月120万円の物件があります」という異常な家賃に、「球団の人に最初3LDKで月7万円ぐらいの家を探してくれっていったら、フザケンナって怒られました。名古屋だったら駐車場付きで7万円ぐらいのところがいくらでもありますよ」と年俸3600万円のベテランもあきれ顔。結局、田園調布の月22万円の3DKで落ち着いた。

 プロ20年目、37歳での新天地での再出発。チーム最年長選手の大島は、入団会見で「目標は40本に置いています」と強気に宣言。ちなみに、結婚記念日が11日だったことから選んだユニフォームの「11番」は、北海道移転後にダルビッシュ有大谷翔平がつける日本ハムを象徴する背番号となった。週べのインタビューでは「3年経ったらちょうど40歳だしな。レギュラーで3年やっていたら、ヒットが2000本に届くんだ(移籍時、通算1656安打)」と新たな目標を掲げた。

日本ハムへ移籍1年目の88年、15本塁打をマークした


 当時のパ・リーグは観客動員に悩み、春季キャンプに観客80人しか集まらず、仕方がないから3匹の犬も含めて83人として発表したなんてハードな環境に驚きながらも、「四番一塁」で開幕した88年シーズンは、4月下旬まで打率トップを争う好調ぶり。5月に風邪で体調を崩したものの、4年ぶりに130試合にフル出場して打率276、15本塁打、63打点。史上25人目の通算2000試合出場、20人目の1000打点、29人目の3000塁打と記録ラッシュの1年に。89年には史上13人目の350本塁打。そして、移籍3年目。90年8月21日のオリックス戦で、なかなかヒットが出ないプレッシャーに苦しめられながらも、近藤貞雄監督のはからいで打席が多く回る一番で起用されると、第4打席で目標の通算2000安打を達成するのだ。当時史上最年長の39歳10カ月、2290試合目も最も遅い快挙達成だった。

日本ハムでは7シーズンもプレー


90年8月21日のオリックス戦で2000本安打を達成した


 91年開幕前には、「選手兼打撃コーチ補佐」就任の要請があり、自らティー打撃でトスを上げ、バッティングケージの後ろから若手にアドバイスを送る姿は“大島塾”と呼ばれた。年々、体力は落ちても、投手の配球が読めるようになってくる。94年5月4日の西武戦では代打で43歳6カ月の最年長満塁ホームランを放ち、この年は得点圏打率.364と無類の勝負強さを発揮する。打てる自信があったので、試合中に大沢啓二監督に向かって「監督、俺のこと、呼びましたか?」なんて貪欲に自らアピール。これには大沢親分も「呼んでねえよ」と笑ったという。

 打率.323を残した94年、戦力外通告を受け現役引退を決意。球団は翌年から新監督を迎えるため、大ベテランの自分がいたらやりにくいだろうというチーム事情は分かっていた。ただ、他の人と一緒の引退会見は断り、単独の引退試合に臨み、意地の2安打を放ったのもまた大島らしい。

 プロ生活26年、中日在籍の最終年は「あと1、2年」と思われていた現役生活だったが、移籍先の日本ハムで計7シーズンもプレーした。80年代後半の中日の一塁には落合博満がいて、セ・リーグにはDHもなかった。大島があのまま名古屋にいたら、43歳まで現役生活を続けることも、2000安打達成も難しかっただろう。恐らく、移籍を成立させた当時の上司、星野監督はそれに薄々気付いていたのではないだろうか。

 男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。のちに日本ハムの一軍監督まで務めることになる大島康徳も、37歳でのトレードで野球人生を逆転させたひとりである。なお、監督就任の際に大島が選んだのは、自分を放出したボスにして恩師、星野仙一の代名詞「背番号77」だった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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