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逆転野球人生

山崎慎太郎、31歳でFA移籍も2年で戦力外に…テスト入団に懸けた元近鉄のエース【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

4年目に13勝でブレイク


近鉄で主に先発として活躍していた山崎


 彼が福岡から持ち帰った荷物は、衣類のほかには、CDラジカセひとつだけだった。

 1999年9月27日、山崎慎太郎は、ダイエーホークス初のリーグ優勝が決まった2日後に球団事務所へ呼び出され、戦力外通告を受けた。2年前に近鉄からFA移籍するも、自分を福岡に誘ってくれた王貞治監督の力になれず、南海時代以来41年ぶりの日本一を勝ち取ったチームに自分の居場所はなかった。33歳、失意の秋――。

 山崎は、和歌山の新宮高から84年ドラフト3位で近鉄バファローズ入りした。建築科で細かい線を引く製図が大の得意。野球選手にならなければ建築技師を目指していた異端の新人右腕に対して、板東里視投手コーチは「こいつはハッキリいって、ウチの目玉商品ですよ。粗削りだけど、あのスピードは魅力。アゴを出さず練習についてくる根性も気に入った。今後がとても楽しみなヤツですよ」なんてベタ褒め。一学年上の吉井理人と比較する声も多く、「3年後、吉井と山崎がウチの投手陣を背負って立つようになれば……」と近鉄首脳陣は近未来の二本柱結成を目論んだ。

 球団からの期待も高く、2年目にはアメリカ教育リーグへ派遣。直球は140キロ前後でシュートを決め球にしていたが、神部年男投手コーチから教えられたスライダーやスローカーブを自分のモノにする指先の器用さも持っていた。3年目には一軍デビューを飾り、仰木彬が監督に就任した4年目の88年にはプロ初完封。“10.19”の最終戦でロッテと引き分け、惜しくも優勝を逃したこの年、13勝7敗、防御率3.10とついにブレイクを果たす。権藤博投手コーチに尻を叩かれながら、エース阿波野秀幸に次ぐ勝ち星を挙げ、黄金期の西武ライオンズ相手に内角を抉る厳しい攻めで、5連勝を飾るレオキラーぶりも話題になった。オフには念願の運転免許を取得して中古で白のブルーバードを購入。自宅マンションから藤井寺球場まで約10分間のドライブを楽しんだ。

 ちなみに週べ選手名鑑で趣味を聞かれ、ルーキーイヤーに異例の長文で「音楽鑑賞、誰のが一番好きといわれたらなにがなんでも松田聖子と答えます。聖子の歌を聴いていると練習の疲れなんか吹っ飛んでしまいますよ」なんつってガチすぎる聖子ちゃん愛を強調しておきながら、翌年の好みの女性のタイプは「原田知世」といきなり心変わりしちゃうお茶目なシンタロウだったが、私生活ではひと目惚れしたお相手に連日の電話攻勢でゴールイン。89年は9勝ながらも、チームはリーグVを達成し、12月16日に故郷の新宮市で結婚式を挙げた。ベースボールマガジン秋季号の「平成元年を彩る男たち」特集で、注目のヤングエースとして伊良部秀輝(ロッテ)や山本昌(中日)と並び、近鉄の背番号15も登場。バブル絶頂のニッポンで、23歳の山崎はまさに野球人生のピークを迎えようとしていた。

迷いがあると失敗する移籍


97年オフにFA宣言の末、ダイエーに移籍した


 90年には父親となり、腰痛に悩まされながら主力投手として投げ続ける。一時中継ぎとして起用されるも、93年は9勝5敗と巻き返し、選手会副会長に就任した94年は序盤から最多勝と最優秀防御率のタイトル争い。プロ10年目で12勝を挙げ、自己最多の年間10完投をマークするなど、野茂英雄が故障離脱した投手陣を支えた。翌95年は初の開幕投手を務め、2年連続の二桁勝利。この時期、野茂、吉井、阿波野らが鈴木啓示監督との確執もあり、続々とチームを去ったが、山崎は飄々と自分の役割を果たす。

 しかし、左アキレス腱を痛め、3勝に終わった97年。FA権を取得したものの主力が軒並み参加した秋季キャンプのメンバーから外れ、球団からの残留要請もない。8000万円を超える高年俸の31歳右腕の去就は注目を集めるが、当時の週べで本人は「正直、どうしたらいいのか迷っている状態」とコメント。同じくFA権を持つ日本ハムのエース西崎幸広が、突然の戦力外通告を受けたことに「僕もどうなるのか……」と不安そうな表情を見せた。首脳陣とのコミュニケーションはほとんどなく、球団が自分を出そうとしている雰囲気すら感じたこともあったという。大阪を離れたくないと、FA宣言して在阪球団でのプレーを希望するも、阪神は同じくFAの吉井理人(ヤクルト)や野田浩司(オリックス)の獲得に乗り出していた。山崎の移籍先はすぐには決まらなかったが、最終的にフロントを通して「彼はまだ十分に二ケタ勝利が期待できる」とラブコールを送った、王貞治監督率いるダイエー入りを決断する。

 だが、当時の球界はまだFA導入から数年しか経っておらず、山崎も制度に翻弄されたような印象すらあった。いつの時代も、野球選手のFAも会社員の転職も迷いがあると失敗する。ダイエー1年目の98年は2勝に終わり、チームが日本一に輝いた99年はわずか1試合しか登板機会がなく、5月には急性胆嚢炎と胆石の手術を受けた。薬で散らすこともできたが、完治させるために手術を決断。しかし、数カ月後に待ち受けていたのは非情な戦力外通告だ。

00年はテストで入団した広島でプレーした


 99年10月下旬、自宅のある大阪に近い阪神のテストを受けたが不合格。しかし、近鉄時代のチームメイト清川栄治が投手コーチを務める広島に誘われ、テストを受けると、スライダーの制球力が評価され合格を勝ち取った。前年から5000万円以上の大幅ダウンとなる年俸1000万円の再出発だ。2000年の山崎は4月から23試合中12試合に登板すると、プロ16年目で初めての代役ストッパーも務め、5月になるとチーム事情から先発へ。気さくな明るい性格で、後輩たちから慕われ、「最年長? 全然意識してないよ。ベテラン? やめてよ」なんて苦笑いする34歳右腕は、インターネットで自身の応援ページに目を通す意外な一面も持っていた。

 25試合、2勝2敗6セーブ、防御率5.11。序盤はカープ2年ぶりの首位躍進に大きく貢献するも、球宴前からファーム暮らし。微妙な立場だったが、球団側は「山崎はよくやってくれた。ただ、基本的に先発タイプだと思うし、それなら若い投手を使った方がいいのではないか、という判断だった」とシビアな決断をくだす。長嶋巨人がリーグ優勝を決めてすぐ、山崎がチーム練習へ行くと6人が事務所へ呼ばれ、全員一緒に「来季は契約しない」と告げられた。

35歳でキャリア最多登板


現役最後の2年間はオリックスのユニフォームを着て、ひと花を咲かせた


 だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。34歳のベテランは心身ともにタフだった。知人や友人を介して、入団テストを受けられるチームがないか自ら情報収集に奔走するのだ。しかし、戦力外になった選手たちとトレーニングはしていたものの、捕手がいなかったのでネットに向かってただボールを投げる日々。距離感も、感覚的にもキャッチャーミットに向かって投げるのとは全然違う。ブルペンの感覚を掴めないまま受けた、ヤクルトや古巣・近鉄のテストは不合格。3球団目が、近鉄時代に世話になった仰木監督や神部投手コーチがいたオリックスだった。11月15、16日に神戸のグラウンドで投げたが、2日目からようやくマウンドでの感覚が戻り出し、当初の予定よりテスト期間が2日間延長されると、首脳陣からは「現場レベルでは合格だ」と告げられる。当時の立場を山崎は、週べ2000年12月18日号のインタビューで、こう語る。

「使うのは監督、コーチですが、取る(入団させる)のは会社ですから……。会社にその意思がなければダメだということですし、僕に関しては、ドラフトの状況によっては違っていたのかもしれません」

 二度の戦力外通告で修羅場を体験してきた山崎は、球団編成と自身の状況を冷静に見た上で、球界の入団テストのシステムについても問題点を指摘する。

「若い選手がテストを希望するとき、やはりどうしても球団任せになってしまう。それだと、どの球団がテストがあって、どこがないのか、よく分からない。ある選手に「テストはどこを受けるんだ」と聞いたら、「球団にお任せしているので、まだ分かりません」と。球界での経験が浅いと、個人的なパイプはないでしょうから、かわいそうですね」

 なお、12球団合同トライアウトが定着するのはこの数年後のことである。弱肉強食のプロの世界。神部コーチからオリックスの合格を伝えられた際、「オマエを取るということは、ほかのだれかを切るということなんだからな」と言われたという。

 FA移籍で失敗しようが、野球人生が終わるわけじゃない。何度テストに落ちようが、諦めず食らいついて、自ら働き場所を探し出し、そこでできる仕事をまっとうする。これがオレの生きる道。迎えた01年シーズン、オリックスのユニフォームを着た山崎慎太郎は、35歳にしてキャリア最多の47試合に登板している。

文=中溝康隆 写真=BBM
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