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逆転野球人生

野村克也監督に「オレが監督をしている限り使う」と信頼されたヤクルトの代打職人・大野雄次【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

あだ名は“ポパイ”


ドラフト4位入団ながら背番号8を与えられた大野


「二軍でくすぶっていたのでは、かっこ悪い背番号ですから」

 26歳の子連れルーキーと話題になった男は、大洋から86年ドラフト4位で指名されると、当時の下位指名では異例の「背番号8」を与えられた。80年代のセ・リーグで8番は、広島山本浩二や、巨人原辰徳といった各球団の顔がつける花形の番号だった。それだけ球団からの大野雄次に対する期待は大きかったのである。

「指名順位なんか関係ない。オレは、バッティングに関してはやっていける自信がある」とプロの世界に飛び込んだ大野は、身長176センチだったが、胸囲103センチ、両太もも63センチのボリュームでマスコミがつけたあだ名は“ポパイ”。春季キャンプの打撃練習で場外弾を連発するルーキーには、先輩の田代富雄も「なんてパワーだ」と驚愕。解説者の山崎裕之も「最近の新人でこれだけ速いスイングする奴はいない。清原(和博。西武)以上だ」と絶賛するなど、誰もがその規格外の飛ばす力に魅せられた。

 千葉の君津商高時代から右の大砲として鳴らし、専修大へ進学するも、「力がないのに上級生が偉そうにする。オレの性に合わん!」と一時は野球を辞めて、ガソリンスタンドのアルバイトで生計を立てた一匹狼。流浪の果てに辿り着いた川崎製鉄千葉でも、当初は監督とぶつかりながらも通算50本塁打をマークした。西武の入団テストに合格するも、あまりの契約金の安さにチーム残留。まるで、同じく大学野球からドロップアウトして、社会人野球から成り上がった落合博満を彷彿とさせるキャリアである。プロ1年目の春先は金属バットと木製バットの違いに戸惑うも、イースタンで5月に打率.317、4本塁打と大洋球団選定の“シルバー賞”を獲得。一軍昇格を勝ち取った6月には2試合連続アーチを放ち、大野も「最高ですよ、一軍は……。だって、二軍なんか遠征に行っても粗末な食事。それに比べ一軍は、昼からどんどんステーキだもん。そればっかじゃあない。打てば、賞金、賞品もいっぱい。こんないいとこないですよ」とハングリー精神で食らいついた。

 一方でその左腕には20万円のアークの腕時計がキラリ。最愛の妻から社会人時代に都市対抗出場を記念して贈られた宝物だ。「将来は、おでんや焼き鳥などの料理店が持ちたいわ」という妻の夢をなんとか叶えてやりたいと週べ誌上で宣言したかと思えば、同じく週べ名物「BOX SEAT」コーナーで「共演したい女優」を聞かれると、「そりぁ何といっても、浅野ゆう子さんでしょうよ。彼女の出演しているテレビ番組は必ず見ているし、CMだって見逃しません。一度でいいから、オフのプロ野球かくし芸大会のドラマかなんかで、いっしょにヒーローとヒロインを演じられたら、いうことないんだけどなあ……」なんつって、トレンディ女優にガチめのラブコールを送っちゃう憎めないポパイ大野であった。

長距離砲として期待を受けて


出場機会を増やすために三塁も守るようになった


 当時の大洋は、ベテランの田代が故障で精彩を欠き、次世代の大砲育成が急務で、アマ時代は捕手が本職の大野は内野手で起用される。横浜スタジアムでの打撃練習で推定飛距離150メートル弾をレフト場外にぶち込むパワーに、首脳陣は守備の不安には目をつぶり、一時はクリーンアップを任せるほどだった。1年目は打率.231、5本塁打、19打点と終盤はなかなかヒットが出ず苦しんだが、2年目の88年オープン戦では巨人2連戦の3打席連発を含む、チームトップの5ホーマーを放ち、「五番・一塁」で初の開幕スタメン。しかし、打撃不振に加えカカトを痛め、この年は本塁打なしと低迷してしまう。

 それでも、90年から大洋監督に就任した須藤豊は「あれだけのパワーがある打者をベンチに置いておくのは、宝の持ち腐れというものです。彼の長打力を生かすために、一塁だけじゃなく三塁もやってもらう」と強化指定選手として期待をかけ、自らバットを持ち60分ものノックを浴びせた。大杉勝男打撃コーチも「一発屋として楽しみな一人」と惚れ込み、「上半身だけで打っている。もっと腰の回転をうまく使った打撃フォームにすれば、もっとホームランを打てるはずだ」と下半身の速い回転でバットスイングを主導する新フォームを熱心に教えた。大野と出会った監督やコーチの多くが、未完の大器の背番号8に和製大砲の夢を見たのである。なお、ファンレターは中年男性からが圧倒的に多く、30代の男性ファンからカフスボタンとカシミヤのマフラー、ワープロで打ったファンレターが届いたことも。不思議と玄人好みのする選手だった。

 しかし、4年目の90年7月28日のヤクルト戦で1試合2発を放つなど印象的な活躍もあったが、好不調の波が激しく、守備に不安があるためなかなかスタメン定着はできなかった。顔がやさしく見えてしまうからとヒゲを生やし始め、巨人の原からプレゼントされたバットでヒットが続いたため、同タイプの930グラム、34インチの黒バットを作り愛用。君津商高時代に東海大相模高と練習試合をしたとき、たまたま見に来ていた辰徳の父・原貢監督から「東海大に来ないか」と誘われたこともあったという。90年は打率.310、5本塁打。91年は打率.231、4本塁打……。5年間で通算15本塁打。プロ入り直後の期待値を考えれば、伸び悩んだまま、大野は気が付いたら、30歳になっていた。

92、93年は巨人でプレーした


 そして、週べ「思い出のヒーロー」アンケートで、『巨人の星』の星飛雄馬を挙げ、毎週テレビアニメは見たし、単行本も全部揃っていると豪語する元G党の大野だったが、91年オフに鴻野淳基との交換トレードでその巨人へ移籍することになる。12月11日の入団発表の際には、予想外の700万円増の年俸1900万円を提示され、「右の大砲として期待してます」と湯浅代表から歓迎された。巨人時代の大野といえば、92年7月5日のヤクルト戦での一撃を思い出すファンも多いだろう。9回表に四番原のあの有名なバット投げホームランで同点に追いついた巨人は、延長11回二死、代打の大野が角盈男から左翼スタンドへ移籍後初となる決勝1号ソロを放った。なお、大野のホームランは放送時間内に間に合わなかったが、フジテレビで中継されたこの試合は、瞬間最高視聴率46.5%を記録。平成初期の巨人戦は、まさに“国民的娯楽”だった。

「監督のために打ちたい……」


95年、オリックスとの日本シリーズでは代打本塁打も放った


 元同僚の屋鋪要から外野用グラブをゆずってもらい左翼守備にも挑戦したが、翌93年からの第二次長嶋政権で、長嶋一茂の入団により出場機会が激減。イースタンで特大弾を放ち健在ぶりをアピールするも、一軍でわずか1打席しか立てず、早い段階で来年の契約は厳しいことも耳に入ってきた。すると前年まで指揮を執っていた藤田元司が西武の森祇晶監督に掛け合ってくれ、西武移籍がまとまりかける。だが、ヤクルトの野村克也監督が大野の獲得を熱望。そうして、慣れているセ・リーグでのプレーを希望した大野はヤクルト入りを決断する。不遇なときでもアイツは腐らず打席に立ち続けたのか? どこかで、誰かが、その仕事ぶりを見ているものだ。男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。

 野村との出会いで、大野の野球人生は大きく好転するのだ。94年6月16日の中日戦で7年ぶりの2試合連続アーチをかっ飛ばすと、「今はホームランよりも、試合に出れることが嬉しいんですよ」と声を弾ませ、愛息がリトルリーグで野球を始めたことに「この前まではサッカーしてたんだからね。親がプロ野球選手だから、気を使ったんだろうな。いい子だよ」なんて笑ってみせる33歳の子煩悩オヤジ。前年の1打席からヤクルト1年目の94年は114打席へ出場機会が激増し、自己最多タイの5本塁打を記録。右の代打の切り札として重宝され、95年のオリックスとの日本シリーズ第1戦でも代打ホームランを放っている。

 迎えたプロ10年目の96年4月16日、甲子園での阪神戦。2点ビハインドで迎えた9回表一死満塁の場面で、代打で登場すると古溝克之の速球を左翼席へ、起死回生の逆転満塁弾を叩き込む。さらに同年8月10日の広島戦でも、2点リードされた8回裏、またも一死満塁で打席に入った背番号30は、左翼席前列へ代打逆転満塁ホームランの離れ業。「使ってくれている(野村)監督のためにも、必死だよ。監督のために打ちたい……ただ、それだけだよね」と語る必殺仕事人。これには普段は冷静なノムさんも、「チームに絶対必要な選手や。大野は、ワシが監督を辞める時まで絶対に使い続けるで」と宣言。実際に98年限りで、恩師がヤクルト監督を退任する際にこんなやり取りがあったことを、大野は『ベースボールマガジン』のパンチ佐藤との対談で語っている。

「俺、(97年の)日本シリーズには呼ばれたの。95年の日本シリーズの経験があったから。でも、そこで結果が出なかったから、もう自分でも「限界かな」と思って。それが、38歳のときでね。(98年)シーズンが終わるころ、野村さんに呼ばれて、「ワシはこれで引退するけど、お前はどうするんだ」って聞かれた。だから、「監督と一緒にヤクルトを辞めます」って答えて、引退したの」

 97年5月に風疹にかかり、高熱が続き2週間ほど休むと筋肉が落ちて、それからバッティングの感覚も完全には戻らなかったという。バット一本で大洋、巨人、ヤクルトと“在京セ”のチームを渡り歩いた12年間のプロ生活は、98年限りで終わりを告げた。週べ99年6月28日号の代打男特集によると、ヤクルトの後輩・青柳進は、右の代打同士の大野とはよく話し、「初球を振りにいかないと体が動かないよ」とアドバイスをもらったという。

 プロ通算27本塁打。その誰もが夢を見たスケールの大きさから考えれば、物足りない記録かもしれない。それでも、大野雄次が放った1シーズン2本の代打逆転満塁ホームランは、当時のプロ野球記録として今もファンの記憶に刻まれている。

文=中溝康隆 写真=BBM
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