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ホークス球団創設85周年

2017年日本シリーズ第6戦 誰よりも日本一を欲した“キング・オブ・クローザー”サファテの3イニング/ホークス球団創設85周年【第6回】

 

2023年、ホークスは球団創設85周年とドーム開業30周年のダブルアニバーサリーイヤーを迎えた。ここでは「あの時のホークス、あの時のドーム」を振り返り、過去から未来へと受け継がれるホークスの歴史を紹介し、未来につながる野球の魅力を発信していく。第6回は2017年、外国人投手の最多セーブ記録を更新し、通算200セーブを達成、史上2人目となる3年連続40セーブ、シーズン最多セーブのプロ野球記録更新と次々に記録を打ち立て、日本シリーズ第6戦で自身初の3イニングを投げMVPに輝いた絶対的守護神デニス・サファテを愛弟子森唯斗が振り返る。

この試合を絶対に落とすわけにはいかない


『師』の覚悟が見えていたと語る森唯斗


 デニス・サファテが、筋骨隆々の太い右腕を振り回し、叫び声を上げながら、一塁側ベンチに全速力で駆け込んできたのは、延長10回を無失点に抑えた、その直後のことだった。「まあ、すごいなというふうには思いましたね。すごいですよ。敵わないです」。森唯斗は、闘志の塊になったかのような、その『師』の一挙手一投足を、一塁側ベンチから、固唾をのんで見つめていた。

「あのときは、チームとしても、球場全体としてもすごい雰囲気でしたし、デニスも目の色が変わっていました。ものすごく気合が入っていましたよ。あの試合、勝ったら終わり、勝ったら日本一なんで、そこで決めたかったという気持ちもあると思いますしね」

 2017年11月4日、ヤフオクドーム(当時)。ソフトバンクが3連勝、2連敗で迎えたDeNAとの日本シリーズ第6戦は、2回に松田宣浩(現巨人)の1号ソロで先制しながらも、5回に逆転を許し、2点のビハインドのまま、終盤の戦いへと突入していた。DeNAの先発、当時プロ2年目だった左腕・今永昇太の前に7回まで、松田の1号ソロの1点に抑えられ、ヒットもわずかにその1本だけ。11三振を喫し、追い上げるムードどころか、反撃の糸口すら見いだせない、じりじりしたその展開に、本拠地・ヤフオクドームの空気も、時を追うごとに重苦しくなっていく。この試合を落とせば3勝3敗。勝負は第7戦にもつれ込む。土俵際から押し返してきたDeNA。一方、ソフトバンクは先に3連勝で王手をかけながら、逆にかけ返されてしまうことになる。勝負の世界に生き続けてきた男には、その“勢いの差”が分かる。

 この試合を、絶対に落とすわけにはいかない。勝って、日本一を決めてしまわなければ、DeNAの勢いに吞まれてしまう。だから「キング・オブ・クローザー」は、固く誓ったのだ。俺が、最後まで投げ抜く。投げて、そして勝つ――。『愛弟子』には、その『師』の覚悟が見えていた。

 当時のソフトバンクが誇る「勝利の方程式」を担ったのは、その年、キューバから育成入団し、6月に支配下登録されるとブルペンの一角を担う左腕に急成長した22歳のリバン・モイネロ、その年球団新記録となる72試合に登板、最優秀中継ぎ投手賞のタイトルも獲得した“8回の男”岩嵜翔(現中日)、そして9回には「キング・オブ・クローザー」こと、デニス・サファテ。その年、今も燦然と輝く、シーズン54セーブのプロ野球記録を樹立している。先発陣にも、その年16勝を挙げ、初の最多勝に輝いた東浜巨が27歳、同13勝の千賀滉大(現ニューヨーク・メッツ)は7年目の24歳、26歳の石川柊太も先発と中継ぎでフル回転して8勝を挙げるなど、若き力の台頭が目立ち始めていた。
 
 その年のチーム失点「483」は、これに次ぐ楽天の「528」を45点も上回る、ダントツの「リーグ最少失点」で、チーム防御率「3.22」もリーグトップ。シーズン94勝は、2位の埼玉西武に13.5ゲーム差。2年ぶりのリーグ優勝と、4年連続日本一の起点となった2017年におけるその強さの源泉は、まさしく圧倒的な投手力にあった。森唯斗もブルペン陣を支える25歳の若き右腕だった。ルーキーイヤーの2014年から4年連続となる50試合以上登板。4年目となるこの年は64試合登板と、そのタフネスぶりには定評があった。2017年の日本シリーズもすでに1、2、3戦目に登板。3戦目ではホールドもマークしていた。第6戦も、森は2点を追う展開の6回から登板。先頭の宮崎敏郎に中前打を許したものの、後続を断ち無失点で切り抜けた。

「投げ終わったらもうブルペンには極力行かないようにしていますね。僕の考えでは、投げた後にブルペンに行ったりしたら、こっちはもう終わっているんだけど、向こうは今から行くというわけですから、何と言うんですかね、水を差さないように、とは思っていましたね。多分、他の人もそうじゃないかと思いますけどね」

 日本一奪回への思いを込めたそのバトンは、森から、信頼する仲間たちの手へと順々に渡っていく。7回はモイネロ、8回も岩嵜が無失点でしのぎ、打線も8回に1点を返して1点差に迫り、9回の攻防へと突入していく。その1点ビハインドの展開で、監督の工藤公康はサファテをマウンドへ送り出した。

最後まで投げ抜き、そして勝つ


絶対にこの試合を取るという覚悟が見えたサファテ


 負けている展開で、守護神が登場する。絶対にこの試合を取る。必ずこの試合で日本一になる。その起用法こそが指揮官からの強いメッセージでもある。サファテは、嶺井博希(現ソフトバンク)を二飛、倉本寿彦を三邪飛、桑原将志を三ゴロと三者凡退に打ち取ると、DeNAは9回のマウンドに当然ながら、守護神・山崎康晃を投入した。

 このまま、終わらせてたまるか――。9回、先頭のアルフレド・デスパイネが遊ゴロでまず1死。続く4番は主将・内川聖一(現独立リーグ大分)。その3球目、真ん中低めへ落ちて来た139キロのツーシームを捉えた一撃は左翼スタンドへ一直線。まさしく起死回生となる同点弾が飛び出した。

 土壇場で、試合が振り出しに戻る。その瞬間、サファテは一塁側ベンチを飛び出し、キャッチボールを始めたのだ。当時、来日7年目。広島、西武、ソフトバンクと、日本の3球団でストッパーとして活躍し続けてきた右腕はこの年、シーズン54セーブの日本記録を樹立。その絶対的守護神でも、それまでの1試合での最長イニングは「2」だった。その不慣れな“またぎ”だって厭わない。

 10回、先頭の梶谷隆幸に右前打を許したが、続くホセ・ロペスには152キロ、4番・筒香嘉智にも155キロで連続三振に仕留め、この試合2安打2四球と絶好調の宮崎は敬遠四球で歩かせての2死一、二塁から、柴田竜拓を一ゴロに打ち取り、10回のスコアボードに「0」を記した。右腕をぶん回し、雄叫びを上げ、全速力で戻ってベンチに戻って来た、その時だった。森は、驚くべき光景を目の当たりにする。「2イニング目、投げ終わったときに勢いよくベンチに帰ってきたときですね。これ、もしかしたらもう1回行くな、というのは思っていたんです。ああ、やっぱりか、という風には思いましたね」。

 監督の工藤に向かって、サファテが右手の人差し指を突き上げていたのだ。それは「続投志願」の合図だった。先発投手のように、6回・100球をメドにペース配分を考えながら投げていくのではない。リリーバーは、1イニングを10球から15球、150キロ超の剛球で相手をねじ伏せていくのが基本の投球スタイルでもある。投げたコースが少々甘かろうが、その圧倒的な球の威力で相手を抑え込んでしまう。それが、ストッパーの使命でもある。

 日本シリーズは当時、延長15回制だった。すでに先の見えない戦いに突入している中で、1イニング、また1イニングと追加していくことは、腕、肩、肘、体、そして心理面にもかかる負担とダメージは、計り知れないものがある。それを、日本シリーズという頂上決戦で、しかも日本一のかかった、ぎりぎりの戦いの中でやろうというのだ。サファテといえども、来日7年目で初の3イニング目だ。

 もう1回、俺が行くから――。そんなことをしたら、壊れてしまうじゃないのか? その疑問を森にぶつけてみたら、笑いながら一蹴された。

「もし僕が9回を任されていて、ああいう場面だったら行きたいですね。行きたい気持ちはあります。あれが、中継ぎで7回、8回を投げるんだったら多分、そうは思わないと思うんですけど、最後を任されているなら行きたいですね」

 3イニングも投げれば、仮に次の日に第7戦があれば、疲労と肩肘へのダメージを考えれば、恐らく投げられないだろう。無理をすればそれこそ故障するかもしれない。見ている側は、そんなネガティブなことばかりが頭に浮かぶ。机上の計算ばかりが先に立ってしまう。3イニングの翌日でも、また投げる? そう重ねて聞いても、森の答えには迷いが感じられなかった。

「そっちはあんまり考えないんです。仮に(第6戦で)負けていても、デニスの場合なら(第7戦で)勝っていたら、また行っていたと思いますよ。もし仮に、僕が抑えのときに3イニング投げさせてもらったとしても、次の日、勝つとなれば、まあ、行くと思いますよ。抑えを任されていたら、ですね。だって、それ投げたら、終わりますしね、もう」

 それが、ストッパーの「心意気」でもある。

 2014年、ドラフト2巡目指名で入団してきた森と、西武から移籍してきたサファテ。つまり、ソフトバンクでは“同期”になる。「一緒にやろう」。常に、キャッチボールの相手に指名された。それが、サファテを支える“根幹の練習法”であることに、森はすぐに気づいたという。「キャッチボールの意識だったりというのは、すごかったんですよ。そこはやっぱり、僕も続けていきたいなとは思っているんです」。単なるウォームアップではなかった。

「彼とキャッチボールをしたら、そう気づく人もいるんじゃないですか? キャッチボールの大切さというか、僕はもし一緒にキャッチボールとかをしてなくて、トレーニングでも、食事だったりでも、そこまでやっていなかったら、多分僕はここまでできていなかったと思うし、ホントに勉強になりましたね」

 低く、強く、伸びのある球。サファテの投げる1球1球、そのすべてが、いつも全力投球だった。「あいつのせいで、何個、グラブがつぶれたか」。そのエピソードばかりは、敬語抜きでの“抗議交じり”となったが、今もその左手に残る剛球の感触こそが、サファテから森に伝えたかった、究極の教えだった。森も毎回、負けずに、全力で投げ返したという。「最後の方、もう思い切り投げてきますし、締めで。僕もやっぱり、向かっていくじゃないですか」。50メートルほどの距離で行う遠投調整も、決してふわりとした球ではない。低く、鋭い、勢いのある、全身を使っての、まさしく全力ピッチだ。
 
 投げている時間は、10分から15分程度なのだという。ストッパーは毎日のように、マウンドに立つ可能性がある。だから、普段の練習中にはブルペンで投げることはほとんどない。だからこそ、その短時間に集中し、効率よく強化していく。無駄の全くない“サファテのルーティン”を、森もその一つ一つを体得していった。「2連投したら、キャッチボールもしないというのは、彼の中ではありました。それは、僕も中継ぎのときには取り入れました。決して何かを言われたとかいうのはないんです」。

 俺の球を見て、学ぶんだ――。意外と古風な、サファテ流の“伝授法”だった。「やっぱり、野球に取り組む姿勢でしたね。野球以外でのメリハリというのもしっかりしてましたし」。

 遠征先でも、ナイター前の午前中に、サファテはウエートトレーニングに取り組むのが、ルーティンの一つだった。「試合前にやるというのは、僕の中ではなかったんです。でも一緒にやってみて、そこまで体の張りというのは起きなかったし、試合に別に影響なかったんで、それだったら、と思って」。だから森は、サファテと一緒にトレーニングに通った。遠征先の午前中なら、ナイター前ならホテルでゆっくりと休養できる時間でもある。「別に長々、していないんですよね」。これも30分程度のメニューなのだという。そうした日々の、たゆまぬ、小さな積み重ねが、ストッパーという過酷な仕事を支えるバックボーンになる。

 森も、ルーキーイヤーの体重は公称77キロ。これが、2017年には90キロまで増えている。サファテとともに取り組んだトレーニングで、プロとしての体を作り上げ、過酷なリリーフ稼業にも耐えうる、強靭な体に変えていったのだ。

サファテの気迫が2年ぶりの日本一を呼び込む


サヨナラでの日本一にサファテも喜びを爆発させた


 場面を、あの日に戻したい。『師』が、未知のゾーンともいえる「3イニング」へと突入していた。さすがに、肩で息をしているのが見て取れた。延長11回、サファテの3イニング目。1死から嶺井に中前打を許しながらも、倉本を一ゴロ、桑原を中飛に抑えて、3イニングを“零封”。今度は、ゆっくりと一塁側ベンチに歩を進めながら、サファテは両手を何度も上下に振り、本拠地・ヤフオクドームの観客の大声援をあおり、巻き起こした。「めちゃくちゃ、盛り上がってましたよね。あのピッチングがあったから、やっぱり野手の方もスイッチが入りましたし、あれで雰囲気がよくなって、勝ったというのもあるんじゃないですか」。

 もう出番を終えていた森ですら、気持ちが高ぶった。サファテの男気に奮い立たない選手はいなかっただろう。11回の攻撃前、ベンチ前で野手陣が円陣を組む。内川が、大声を張り上げた。「ここまでやって、負けたら損だろ。デニスがここまで頑張ってくれたんだから、それ以上に俺たちが頑張らないと」。1死から内川、中村晃が連続四球を選んで一、二塁。ここで松田は三ゴロ。三塁・宮崎が三塁を踏み、まずフォースアウト。続いて一塁へ送球したが、これが逸れ、併殺にならずに命拾い。この2死一、二塁から、川島慶三が流し打った当たりが、一、二塁間を破っていった。打球は、前進守備の右翼・梶谷の真正面に転がった。

 浅い当たりながら、二走・中村晃は本塁へ突っ込んだ。ぎりぎりのタイミングだ。クロスプレーになる。ここで梶谷の送球が、本塁手前でポンと跳ね上がり、捕手・嶺井の頭上を通り過ぎて行った。もしストライク送球なら、タッチアウトになっていたかもしれない。そうなると、試合は続いていた。ブルペンには、寺原隼人中田賢一武田翔太の3人が控えていた。寺原は、横浜時代にストッパーの経験はあった。しかし、サファテの後を継いで、もう1点もやれないという、そのシチュエーションを担うのは、どれほどの実績を持つ投手でも難しいだろう。そう考えれば、追い込まれていたのは、むしろソフトバンクの方だったのかもしれない。

 サファテの36球。その気迫が、野球の神様を、最後には味方へ引き込み、2年ぶりの日本一を呼び込んだのかもしれない。「きょう、全部を使い切ってしまった。明日の分は残っていなかったよ。ま、3イニングはもう、これっきりにしてほしいよね」。試合後の“日本一達成会見”で、笑いながらそう振り返ったサファテは、日本シリーズMVPはもちろん、パ・リーグMVP、そして、その年のプロ野球界の発展に貢献した人物に贈られる「正力松太郎賞」も、現役の外国人投手として初受賞した。ただ、その圧倒的なパフォーマンスを見せた雄姿は、事実上、あのマウンドが“最後”になってしまった。
 
 翌2018年、1軍で6試合登板も、4月に米国へ帰国して右股関節を手術。2019年もオープン戦には登板しながら復調できずに、6月に米国へ帰国して検査、そのシーズンは結局、日本へ戻って来ることはなかった。2020年にも、右股関節の悪化で8月に途中帰国。同10月には「右股関節・変形性股関節症の人工股関節置換術」を受けた。そして3年契約の最終年となった2021年は、股関節のリハビリのため、来日することもないままシーズンを終えると、同11月30日、サファテは現役引退を発表した。あの3イニングは、事実上、サファテの野球人生をかけた、まさしく、渾身のパフォーマンスでもあった。

8月19日西武戦で行われる「ダブルアニバーサリーデー」にサファテが来日


試合前のセレモニアルイベントで久々にPayPayドームのマウンドにサファテが上がる


「セレモニアルピッチですよね? 1軍にもしいたら、打席に立って、打ったろかなと思っています。それくらいのことはしたいなと。デニスも、僕だったらOKしてくれるんじゃないかな、と思うんで」。そう笑いながら“打倒サファテ”を誓った森は、続けて、秘めた強い覚悟も口にした。「もし2軍だったら、ドームに行かないと決めています。もしかしたら、始球式だけはどこかで見るかもしれないですけど、球場に行って、というのは、僕はしたくない。1軍にいたら、その試合に出られるように頑張ります。ユニホームで会いたいんです。球場以外で会うのはできると思いますけど、それとこれとは別ですから」。

 森は、サファテの後を継いだ2018年、37セーブを挙げて最多セーブに輝くなど、18年から3年連続で30セーブ以上をマークした。2017年からの4年連続日本一は、サファテから、その座を受け継いだ森が、最後の砦を守り続けたのだ。その通算127セーブを誇る“前・守護神”は、プロ10年目31歳になった今季、新たなる可能性を求めて、先発への転向を図っている。4月27日の楽天戦(PayPayドーム)では、6回4安打無失点で“先発初勝利”も飾り、ファームでも先発ローテーションに入って投げ続けている。それは、1軍の先発陣が足りなくなったり、誰かにアクシデントが起こったりした際、そのスポットに入るための“準備組”の意味合いがある。

 だから、投げる準備は、いつでもできている。「他のピッチャーとの兼ね合いもありますからね。これから2軍で投げるときも、1試合でも無駄にしないようにしなければ、“そこ”には行けないと思いますから」。そう語る森が見据えるのは「8月19日」だ。敬愛する『師』がやって来るその日に、本拠地・福岡PayPayドームで、1軍の先発マウンドに立つことだ。

「それまでに、今投げているピッチャーよりも、いいものを残さないと上に上がっていけないと思うんで、そこはモチベーションを上げていきたいな、と思います。彼は試合を見ると思うんで、先発なら、今こんな感じだよというのを見せたい気持ちもあります。なので、そこには行きたいな、と思っています」

 今季前半戦での1軍登板は3試合。優勝争いが激しさを増していく真夏の戦いで、先発の座を奪い取るのは、決して簡単なことではないのは、百も承知だ。それでも、何としても、実現させたい。サファテが見守る前で、8月19日、自分が先発する――。

「だから、ここからです。森の逆襲です」

 それも『師』から受け継いだ“不屈の魂”でもある。

文=喜瀬雅則 写真=松村真行、BBM
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