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逆転野球人生

城石憲之……時給700円のフリーター生活、二軍ワースト打率から世界一の侍ジャパンコーチへ【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

大学野球部は10日間で退部


ヤクルト時代の城石


 高校時代の彼は、将来を嘱望されるスター球児だった。

 週べ1991年4月1日号の春のセンバツ甲子園の出場校名鑑では、初出場の春日部共栄高の遊撃手として名を連ね、同学年には上田佳範(松商学園高)や鈴木一朗(愛工大名電高)がいた世代である。週刊読売91年8月18日・25日号では、「やや細身だが、シャープなバッティングでチャンスに強いところを見せ、決勝の対聖望戦(相手エースは門倉健)では七回に同点本塁打、八回に決勝の二塁打を放っている。打率は4割9厘」と高木大成(桐蔭学園高)や萩原誠(大阪桐蔭高)らと並んで、プロ注目の打者と紹介されている。

 主将を務め、右打席から鋭い打球を飛ばし、甲子園に春夏連続出場したイケメンの大型遊撃手に対して、プロ5球団から誘いがきた。間違いなく、当時の城石憲之は、輝かしい未来が約束されたアマチュア球界の有望株だった。だが、それを最後に、彼の名はしばらく野球界から消えた。次に城石の名が世に出るのは、94年ドラフト会議で日本ハムから5位指名を受けたときである。

春日部共栄高で主将として91年春夏甲子園に連続出場した


 空白の3年間―――。92年春、城石は青学大の野球部に入るも、10日間で退部。周囲から引き留められたが、学校も中退してしまう。野球エリートと呼ばれるコースから、自らドロップアウトするのだ。大学野球部の理不尽な縦社会に、今に見てろよと思う気力も根性もなかった。それどころか、普通の18歳のように遊びたいと願う自分がいた。いわば、高校時代に燃え尽きていたのだ。

「大学はすぐ辞めたんです。野球部へは入学前から行ったんですが、その時点で。籍はありましたけど通っていません。高校で厳しさを経験してきて甲子園にも出たけど、大学でまたイチからスタート。再び厳しい生活になるのが、自分のなかで耐えられなくなったんじゃないですか。今考えるとくだらない理由ですけど。「もう野球はできない」と思ったし、やろうとも思わなかった」(週刊ベースボール2010年1月18日号)

テストを経てプロへ


 すぐ埼玉の実家に戻り、昼はガソリンスタンドの店員やソバ屋の出前のアルバイト。時間ができれば一人暮らしの友人の部屋に転がり込み、夜は仲間たちと遊ぶ。時給700円、カネはないが時間だけはたっぷりある、19歳フリーターの普通の青春がそこにはあった。好きなアイドルは菊池桃子で、氷室京介がリードボーカルを務めるバンド「ボウイ」の曲がお気に入り。だが、気楽な生活は、物足りなさと背中合わせだ。打球をさばくヒリヒリするような緊張感も、打席での吐くようなプレッシャーもない当たり前の毎日が過ぎていく。城石はのちに当時の心境をこう語る。

「どうしようもなかったですね、あのときは。やることもないし、目標もなかった。野球中心に生活してきて、野球がなくなってしまったのだから」(週刊ベースボール2002年9月9日号)

 俺はこのままでいいのだろうか……。20歳になったが、成人式にもでなかった。2年前は地元のヒーローも、今はたまに草野球の助っ人に呼ばれる程度。プロ野球や大学球界では、同い年の知った顔が活躍し始めていたが、テレビ中継を見ることもなく、それも別世界の出来事だった。気が付けば、城石は己の人生を懸けるものを欲していた。答えは簡単に出た。自分が勝負できる場所は、野球しかなかった。

テストを経て94年のドラフトで日本ハムから5位指名を受けて入団[後列左から1位金村曉、2位厚澤和幸、3位桜井幸博、4位島田一輝、城石


 心配した父親が、「もう一度野球をやるなら、できる限りの手伝いをする」と通勤前の早朝キャッチボールに付き合ってくれた。トレーニングを手伝ってもらい、もしかしたら何とかなるかも……と甘い希望を抱き、93年秋にヤクルトの入団テストを受けたが、実戦から離れていた城石は当然のように不合格だ。現実の厳しさに直面して、今度は父の知人を頼り社会人の東芝野球部で練習参加する。冬の3カ月間、社会人の名門のハードな練習に食らいついて錆びついた体を鍛え直し、94年3月には日本ハムの入団テストに臨んだ。すると自分でも驚くほど打球が飛び、合格を勝ち取った。

 しかし、まだ3月なので、秋のドラフト会議まで半年以上ある。城石は、埼玉の大宮から電車を乗り継ぎ、多摩川丸子橋の日本ハム二軍グラウンドへ通った。二軍の選手がいない時間を見計らって、室内練習場で打撃マシンに向かうためだ。このシーズン、日本ハムの一軍は最下位に低迷。責任を取り大沢啓二監督が辞任して、オフには上田利治が新監督に就任する。上田は91年当時、オリックスのフロントにいたが、甲子園で活躍していた城石をドラフト候補にあげていたという。

異色の二浪新人“ニローくん”


 そうして、紆余曲折ありながら、94年ドラフト会議で日本ハムから5位指名を受けるのだ。回り道の果てにようやく立ったスタートライン。なお94年シーズンは、プロ3年目のオリックスの背番号51がプロ野球新記録の年間210安打を放ち、球界の話題を独占していた。高校時代、73年生まれの城石と同学年で甲子園を沸かせた鈴木一朗は「イチロー」と名乗り、瞬く間に球界のスーパースターへと駆け上がったのだ。ちなみに当時の週べでは、フリーター出身の異色の二浪新人“ニローくん”と城石を紹介している。オリックスにはイチロー、ロッテにはサブロー(大村三郎)、日本ハムにはニローである。95年の春季キャンプ、一軍に呼ばれたルーキー城石を高校時代以来4年ぶりに見た上田監督は、「背も伸びたしパワーもついた。鍛えがいのある選手や」と期待を口にした。

 しかし、沖縄・名護キャンプ行きメンバーに大抜擢されたと思ったら、3日目に39度の発熱で沖縄から強制送還。だが、入団テストで城石の打撃を高く評価した種茂雅之二軍監督は、「いいものを持っているし、辛抱強く使っていきたいね。鍛え甲斐のある選手だよ。まだ、素質だけでプレーしているからな……」と開幕後も試合勘を取り戻させようと二軍の実戦で起用し続けた。1年目はイースタン・リーグで82試合に出て、リーグワーストの打率.216に終わるが、城石本人は「率よりも、試合に出れたことで満足しています。夏ぐらいには試合感覚も戻ってきた」と前を向いた。

日本ハムには98年の開幕直前まで在籍した


 1年目の最終盤に一軍昇格すると、初安打も記録。3年目の97年には、西浦克拓らとともにジュニア・オールスターに出場する。この年の日本ハムは借り物の相模原球場から、130億円の巨費を投じて建設した鎌ヶ谷のファイターズタウンへ移転。リーグ新記録の63勝で17年ぶりのイースタン優勝、初の二軍日本一にも輝いた。いわば、城石や西浦は鎌ヶ谷で再始動した“育成の日本ハム”の一期生でもあった。

 だが、初の開幕一軍入りを果たした、98年の開幕戦を翌日に控えた4月3日の夜。ホテルで上田監督から呼び出され、「明日からヤクルトへ行ってくれ」と告げられるのだ。日本ハムサイドは、絶対的存在の古田敦也がいるため出場機会に恵まれない捕手の野口寿浩を欲しがっており、ヤクルト側は球界を揺るがした集団脱税事件で宮本慎也が4週間の出場停止となったタイミングで、代役遊撃手の緊急補強に乗り出した。なお、城石がヤクルト移籍後に可愛がってもらった3歳上の宮本は、ドラフトの同期で逆指名時にヤクルトか日本ハムで迷い、「もし俺が日本ハムに入っていたら、おまえはプロには入っていなかったかもな」と明かされたという。なお、野口と城石のトレードが成立したその日、巨人との開幕戦で正捕手の古田が右手親指の付け根を負傷。もし数日遅れていたら、第二捕手の野口を出すこのトレードは成立していなかったかもしれない。

「僕は恵まれています」


ヤクルトではバイプレーヤーとして力を発揮した


「突然のことで驚いています。でも、気分を一新してまた一から頑張りたい」と移籍会見では戸惑いながらも、新天地1年目の98年9月15日の中日戦、本拠地の神宮球場でプロ初アーチを放った。慣れない二塁守備を身につけようと、他の選手がオフの日も関係なく練習に没頭。宮本からはグラブを譲り受け、毎オフに修理をしながら、引退するまで使い続けた。日本ハム3年間で9試合の出場しかなかった男が、移籍すると98年は44試合、99年は86試合と守備固めを中心に急激に出番を増やしていく。

「テスト入団だから球団にとって「何とか育てなきゃ」という選手ではないでしょうし、何かがズバ抜けていたわけでもない。成績を見たら日本ハムの3年間で終わっていてもいい選手ですよ。良いタイミングで引き抜かれた運もあるんじゃないですかね。選手はみんな、全力で頑張っています。それでも終わっていく選手をいっぱい見てきた。不思議ですよ。僕は恵まれています」

 一度は野球をあきらめた城石には、先輩にも物怖じせず意見を言える熱さと同時に「なるようになるさ」というどこか達観した雰囲気があった。背番号が00から10へと変わった02年春には、守備中に味方野手と激突して左ヒジ完全脱臼の重症を負うも、課題の打撃で自己最多の8本塁打をマーク。05年には二塁レギュラーとして130試合に出場した。移籍組ながらも選手会長を務め、一時は人気女子アナウンサーと結婚していたことも話題に。通算817試合で376安打、25本塁打とタイトルとは無縁だったが、09年まで結果的にプロテストを受けた二球団の日本ハムとヤクルトで計15年間プレー。引退後も両球団で指導者として活躍している。

今春のWBCでは侍ジャパンのコーチとして世界一の一員になった[左。写真=Getty Images]


 人との出会いや移籍のタイミングがどこかで、少しでもズレていたら、その野球人生はまったく違うものになっていただろう。城石は自著『世界一のベンチで起きたこと』(ワニブックス)の中で、大学を中退してふらふらしていた19歳のある日、一冊の本と出会ったことを明かしている。『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』(池田書店)である。メニエール病と戦いながら現役を続けた栗山の生き方に触れ、城石は野球から逃げている自分と向き合った。そして、やがて「もう一度野球をやろう」という結論に達するのだ。

 男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。その約30年後、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ2023WBCで、侍ジャパンの栗山監督を支えた参謀のひとりが、日本代表の内野守備・走塁兼作戦コーチを務めた、49歳の城石憲之であった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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