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逆転野球人生

クビになった33歳が、阪神テスト入団後にリーグ最多登板。4年連続最下位のチームで奮闘した伊藤敦規【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

阪急最後のドラフト1位


阪神時代の伊藤


 最下位常連のチームは、他球団の入団テストに受け入れてもらえないプレーヤーの最後のよりどころ――。

 かつて阪神タイガースが、クビになった選手の駆け込み寺と言われていた時代に、伊藤敦規は入団テストを受け、チャンスを掴んだ。伊藤はかつて阪急ブレーブスにドラフト1位指名された変則右腕である。工藤公康槙原寛己とは同郷の同学年で昭和38(1963)年生まれの“花のサンパチ組”と呼ばれ、福井工業大時代はロサンゼルス五輪の日本代表として金メダルを獲得。週べ86年7月28日号の「第57回都市対抗野球展望」では、東京都の第三代表になった熊谷組の注目の新人として、「84年ロス五輪で活躍した下手投げの逸材」と紹介されている。87年のドラフト直前特集号でも、「阪神は3年前も伊藤を指名するつもりだったが、断念したいきさつがある。さらに伊藤は“小林繁二世”の呼び声高い下手投げ」と阪神1位予想選手としてあげられている。だが、フタを開けてみれば、伊藤が憧れる山田久志のいる阪急ブレーブスから1位指名を受けるのだ(翌年、球団はオリックスへ身売りするため「阪急最後のドラ1」でもあった)。

1987年のドラフトで1位指名され阪急に入団した[左は上田利治監督]


 社会人No.1サブマリンは新人王最有力候補として注目され、契約金6000万円、年俸600万円の好条件に加え、背番号は山田の17番の前の「16」を与えられ、本人も「ぜひ、二ケタ勝利を挙げて、新人王を狙ってみたい。その自信はあります。インコースで勝負してバットを折るピッチングをみせる」と目標を語った。合宿所の自室天井に15枚に及ぶ山田の投球フォーム分解写真を貼り、寝る前に見つめてそれを頭に焼き付ける。山田本人から落ちるシュートを教えてもらったと喜ぶ伊藤だったが、プロの壁は高かった。スピードや技術面では負けていないと思ったが、とにかく体力面の差を痛感する。さらにアマ時代はほとんど先発しかやったことがなく、リリーフの心構えや調整法も手探り。プロ初登板が無死満塁でのリリーフだったように、厳しい場面で使われるうちにコントロールにばかり気を配り、球速も130キロ台中盤まで落ち込み、ピッチングが小さくまとまってしまった。

 二軍では格の違いを見せつけ、8月28日のウエスタン阪神戦でノーヒットノーランを達成。9回一死で死球を与えるまでは完全投球という圧巻の内容だったが、一軍では1勝4敗1セーブ、防御率5.69に終わった。体力をつけて巻き返しを誓ったが、2年目の89年シーズンは8月26日のロッテ戦で、ローテの谷間にようやく初先発してプロ初完投勝利。札幌での快投に「オレしかいないと思っていたから、言われたときはビックリするより、やっと番が回ってきた」とホッとひと息。「12月に結婚する婚約者に知らせたい」なんて照れてみせ、3年目の90年には日本ハム戦で死球を与えたトニー・ブリューワの左フックを食らうアクシデントに見舞われながらも、7勝7敗、防御率4.71という成績を残す。

横浜に移籍も復活できず


阪急・オリックスで順調にキャリアを積んでいくように思われたが……[左は中嶋聡]


 コルボーン投手コーチが「ストライク・マシン」と感嘆するコントロールを誇り、オープン戦で完封されたヤクルトナインは「巨人の斎藤(雅樹)より速い」と脱帽する。91年は負け越したものの、王者西武に2安打完封の快投でレオキラーと話題になり、初の規定投球に到達するとリーグ7位の防御率3.08。翌92年には8勝を挙げ、監督推薦で初のオールスター戦にも出場した。年俸も星野伸之佐藤義則に次いでチーム投手陣3位の4200万円まで上がり、ドラ1投手として順風満帆な野球人生のようにも見えた。

 だが、三十代を迎えた93年あたりから雲行きが怪しくなる。スランプ状態に陥り、5月にミニキャンプを敢行するも二軍落ち。前年5勝とカモにした西武も伊藤を徹底的に研究してきて防御率7点台と打ち込まれた。米田哲也投手コーチからは「とにかくコントロールが悪い。抜群に速い球を投げるわけじゃないのに、みんな真ん中に行ってしまう。これではダメだ」と酷評されてしまう。

移籍先の横浜でも思うようなピッチングができなかった


 右脇腹の疲労骨折もあり、93年は3勝、94年はわずか9試合にしか投げられず自身初の未勝利に終わる。そして、トレードは突然だった。プロに入るときはあれだけ期待されたのに、会社から出されるときはあっけないものだ。練習中に井箟重慶球団代表が来て、「横浜へ行ってもらうことになった」と告げられる。飯塚富司とともに、水尾嘉孝渡部高史堀江賢治との2対3の交換トレードで初のセ・リーグへ。通告からすぐに会見があり、家族に電話をする時間もなかったという。横浜への引っ越しのため、兵庫県内のマンションは売りに出して売却契約も成立。だが、年明けの阪神大震災で4LDKの部屋は全壊してしまう。伊藤自身も「売却の契約は白紙になるでしょうね」と肩を落としたが、新天地のオープン戦では無失点投球を続け、「マウンドに上がったら、ケンカと同じ気持ちで投げています。ボクは気持ちでしか投げることができませんから」と横浜での復活を信じた。

 だが、左ヒザを痛めた影響もあり、2年間でわずか23試合にしか投げられず自由契約に。クビを通告された96年秋、伊藤はすでに33歳になっていた。のちに週べの取材に伊藤はこう答えている。

「正直言って、もう野球を辞めようと思った。でも、結局はもう一度、ファンだったタイガースで賭けてみようと決めたんだ」

プロ11年目でキャリアハイ


 もう充分やったじゃないか。地元に戻り、稼業の建築業を継いだらどうかという薦めも当然あった。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。伊藤は、最後のチャンスと阪神の入団テストを受けるのだ。変則投手の多い阪神では合格は難しいという見方が大勢を占めたが、安芸キャンプの最終日に悲願の合格通知を掴んだ。年俸は3400万円から半減の1700万円まで落ちたが、一度は終わりかけた野球人生。「どんな場面でも、行けと言われればマウンドに立ちます。ここ2、3年のことを考えれば……」と縦縞のユニフォームを着た伊藤はがむしゃらに腕を振り続ける。

 吉田義男監督は、巨人3連戦で伊藤を連投させた際、「アチラさんばっかり“再生工場”といわれるのは、オモロないですからな」とヤクルトの野村克也監督への対抗意識をチラリ。97年の阪神は主軸を期待されたグリーンウェルが嵐のように去り、優勝したヤクルトと21ゲーム差の5位に終わったが、吉田監督はブルペンの救世主として経験豊富なベテラン右腕を頼った。「伊藤がおらんかったらゾッとする。困った時の伊藤だった」と最終的に背番号47はチーム最多の60試合に登板。8勝5敗8セーブ、防御率2.67というプロ11年目にしてキャリアハイの成績を残してみせるのだ。

 チーム最下位脱出の功労者に対して、獲得を決めたフロントですら「まさか、こんなに投げられると思わなかった」なんて驚く大車輪の活躍。“第二の伊藤”を探そうと、プロに在籍した選手の入団テストを行う実施要項を異例のマスコミ発表するほどだった。

 契約更改では、「去年拾ってもらい、『鶴の恩返し』じゃないけど、羽根をむしる気持ちでやってきたんですが……」と浪花節の名台詞がファンの共感を呼び、当初の提示額より1000万円の上積みを勝ち取り、推定4000万円でサインした。

35歳を過ぎて迎えた全盛期


阪神ではリリーフとして登板を重ねた


 驚くべきことに、伊藤の全盛期は35歳を過ぎてからだった。1点を守るリリーフの仕事の面白さに目覚め、阪神加入後の97年から5年連続で年間50試合以上の投げっぷり。野村克也監督の就任後も重宝され、37歳になった2000年シーズンにはリーグ最多の71登板で防御率1.86。シュートやシンカーを投げ分け、生命線のインコースをつくストレートで強気に攻め、八木沢荘六投手コーチも「スーパーマンのような男ですよ」と信頼を寄せた。古巣の熊谷組野球部は不況で休部となったが、クラブチームとして再始動する際、仲間たちは崖っぷちから甦った伊藤の姿に元気づけられたという。評論家の杉下茂は、「阪神に移って開き直ったかのような、いい意味での思い切りのよさが見られる。下手投げ投手のほぼ理想型といってもいいだろう」とその投球フォームを絶賛した。

 だが、伊藤がフル回転した時期、98年から2001年の阪神は4年連続最下位に沈む暗黒期真っ只中。そういうチームが苦しい時期に投手陣最年長の背番号47は誰よりも多くの試合に投げ続け、求められれば4イニングのロングリリーフも厭わなかった。かと思えば、サウスポー遠山奨志のあと右の伊藤がワンポイントで繋ぎ、一塁に回っていた遠山が再びマウンドへという変則的な継投策も黙々とこなす。それでも、いつだってマウンドに上がれる喜びの方が勝った。どんな使われ方をしようが、仕事があるだけラッキーってもんさ。いつか先発に戻りたいと考えていたが、周囲に起用法に対する愚痴や不満をこぼすのではなく、これもいい経験と笑い飛ばした。野球人生に無駄なことなど何一つない。地獄から生還したリリーバー伊藤敦規は己が歩んだ道を振り返り、こんな言葉を残している。

「僕はオリックス時代にろっ骨を骨折してから勝てなくなってしまって、横浜でも先発でしたが、あの2年間は遊んでいたようなものでした。ヒザを痛めてしまって、全然ダメでしたからね。でも今考えるとあの2年間、それこそヒザを痛めていたので、上半身ばかり鍛えていたんです。阪神に来てこうして投げていられるのは、そのときのトレーニングのおかげかなとは思っていますよ」(週刊ベースボール99年8月30日号)

文=中溝康隆 写真=BBM
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