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よみがえる1958年-69年のプロ野球

阪神・村山実は言う。「あの沢村栄治さんと並べられただけでも、幸せであった」/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年─69年のプロ野球』1962年編表紙


あわやノーヒットノーラン


 今回はシーズンオフのデトロイト・タイガースとの日米野球。1962年編には入れなかったものだ。



 1962年秋、強力打線が売りのMLBの名門・デトロイト・タイガースが毎日新聞社の招きで来日した。10月27日の初戦、大毎オリオンズ戦では12対1と幸先のよいスタートを切る。途中苦戦もあったが、11勝3敗1分けと勝利を積み上げたDタイガースは、16戦目の11月17日、後楽園での全日本戦で屈辱的な敗戦を喫した。

 立役者は3度目の先発となる阪神村山実だった。同年25勝を挙げ、セのMVPを獲得。フォークが決め球の快速球右腕だ。キャッチャーの南海・野村克也は、村山のストレートを見せ球にし、低目のフォークで勝負する戦略を取る。村山は「押すと見せて引く。引くと見せて押すというノムさんのリードも素晴らしかった。実に気持ちよく投げられた」と振り返った。

 試合は、野村のバックスクリーンへの大ホームランもあって全日本が4得点。一方、村山はテンポよく投げ続け、気がついたら7回まで許した走者は初回の四球の1人だけだった。もしやノーヒットノーランの展開にDタイガースの選手たちの顔色が変わり、8回、Dタイガースの攻撃を前にレフトスタンドに陣取ったアメリカ軍楽隊が突然、突撃ラッパを鳴らし始めてスタンドが騒然となった。

 村山は2つめの四球を許すも二死まで漕ぎつけたが、ここでロアークのレフト前へのライナーを東映・張本勲が前進、また前進で追いながら、グラブに当てるも落とし、初ヒット。9回にはバントヒット(修正)も許した。それでも被安打2、無失点のままゲームセット。村山の完封勝利だ。大リーガー相手に継投ではなく一人で完封勝利は日本球界史上初でもあった。

 以下は村山の著書『炎のエース』からの抜粋だ。

 新聞はこのピッチングを「沢村二世」と書いた。沢村と言えば、不世出の大投手。太平洋戦争のために帰らぬ人となったが、我々プロ野球で生きてきた者の、永遠のヒーローである。

 藤本定義さんが、阪神の監督を辞めて、評論家生活に入られた時、その長い監督人生を振り返って、シミジミと私にこう言われたことがある。

「ワシが扱った投手で、最も、手を焼いたのは“沢村と村山”の2人よ。沢村も、ムラ、おまえさんも、どちらもマウンドに送り出すのが一苦労じゃった。やれ、ヒジが痛いの、肩がおかしいの……となんだかんだとぬかしおる。

 ところが、沢村もおまえさんも、一度、マウンドに送り出すと、あとは、もうベンチでこっちは昼寝をしてもよかった。“なんとかしてくれる”という点では、沢村と村山の2人がトップじゃった」

 あの沢村さんと並べられただけでも、幸せであった。

 試合後、主砲のケーラインが一塁側ベンチまで来て「ナイスピッチング。僕はムラヤマが日本一のピッチャーだと思っていたが、間違っていなかったよ」とベタ褒めしてくれた。

 外交辞令もあるのだろうが、けなされるよりは気分がいい。試合後の記者会見でデトロイトのシェフィング監督はこう言って記者団を笑わせた。

「来春、ハンシン・タイガースはアメリカにキャンプにやってくるが、その時、ムラヤマを引き抜かれないように注意することだ」

 抜粋は以上。

 ちなみに阪神タイガースは、11月3日、「同名のよしみ」と甲陽園の料亭『播半』でパーティを開き、そこで翌春、フロリダのタイガース・キャンプに参加させてもらえないかと打診。2日後にOKの返事をもらっていた。
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