週刊ベースボールONLINE

逆転野球人生

31歳でトレード志願して大変身! 「サラリーマンの人事異動のお手本」と言われた長身右腕・金石昭人【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

偉大な伯父さんの一言で


広島時代の金石[左。右は捕手の達川光男]


「お前、野球をやれ」

 小学5年生の少年は、正月の親族の集まりでキャッチボールをしてもらった伯父さんにそう言われた。母の兄にあたる伯父さんの名は、金田正一。あの伝説の400勝投手である。

 金石昭人は、それまで走り高跳びが得意で陸上選手を夢見ていたが、偉大な伯父さんの一言で野球選手を志すようになる。岐阜を出て進学したPL学園では、背番号10をつけて夏の甲子園優勝を経験するも、登板機会はなく、エースはのちにプロでも同僚になる西田真二だった。広島カープへは78年ドラフト外入団だが、実は金田正一の実弟でこちらもプロ野球選手の伯父さん、金田留広ロッテからトレードでカープ入りした際に、「甥に金石というのがいる。何とかカープの指導力と本人の努力で一人前にしてやりたいから、テストのつもりでユニフォームを着せてほしい」と金石を売り込んでくれたという。

 入団時に身長193cmの大型右腕は、あの大投手の甥でサラブレットと話題になり、カネヤンも「オレの若いときにそっくりやな」と太鼓判を押した。正一400勝、留広128勝と残り72勝の“金田ファミリー通算600勝”を目標に掲げるも、右ヒジを故障したこともあり、入団後数年は泣かず飛ばす。それでも、米教育リーグへ派遣され、落差の大きいフォークボールをマスターするなど球団からの期待は高く、プロ4年目に一軍初登板。しかし、当時の広島は北別府学大野豊川口和久らがしのぎを削る球界屈指の投手王国だった。

 契約金の高いドラフト1位の選手なら、球団が投資した分だけチャンスも優先的に与えられる。だが、金石のようなドラフト外入団は長い順番待ちの列に並ばなければならない。ようやくアピールの機会が巡ってきたのが、先輩投手の山根和夫が右肩痛で登板回避した85年オープン戦終盤だった。7年目の金石が代役先発に抜擢され、快投を披露して初の開幕一軍入りを果たす。85年4月18日のヤクルト戦(神宮)、6回に満塁アーチを浴びるもプロ初勝利を4失点完投で飾ると一気に3連勝。緊張しやすい金石は、心の動きを相手に悟られないようにわざと太々しい態度を取ってみせた。引退後に出した自著の中では、マウンド上で懸命に演技していたことを告白している。

「私は一軍デビューした最初のころから相手に、こちらの心理状態をわからせないように、最新の注意を払って演技をしたのである。演技といえば聞こえがいい。だが、はっきりいって、自分以外の人間すべてを騙すのである。決していい趣味ではないが、背に腹は変えられなかった」(裸の野球人/KKロングセラーズ)

「それだけの覚悟は持っていた」


 7年目の遅すぎる初勝利を含む6勝9敗という成績を残した金石だったが、後半戦は体力不足で完全に息切れ。それを反省して体重を10キロ増量させて迎えた翌86年シーズンに飛躍する。12勝6敗、防御率2.68は同僚の北別府に次いでリーグ2位という堂々たる成績で、チームのリーグVに貢献するのだ。苦節8年目のブレイクで、オールスター戦にも初出場。週ベのインタビューでは長いファーム暮らしを聞かれ、こう答えている。

「いつクビになっても、他の球団でやっていける実力だけはつけておこうって思ってた。そしたら野球は続けられますからね。それだけの覚悟だけは持っていましたよ」

 なお、27歳で身長が2cm伸びて、195.5cmの現役日本人選手では最高の長身となった(のちに公称197cmへ)。だが、毎年のように肩、ヒジ、腰と度重なる怪我に悩まされ、なかなかフルシーズン働けず、ようやく故障が癒えた91年も31試合で4勝7敗2セーブ、防御率3.29という不本意な成績に終わる。年齢も30歳を越え、一軍の職場環境にも慣れて、給料は黙っていても毎月100万円以上振り込まれ、広島市内にマンションを購入済み。気が付けば、居心地のいいぬるま湯に浸かっている自分に気が付き、金石は「このままじゃ俺は終わるぞ」と危機感を抱いたという。まさに中堅会社員が転職するような心境で、なんとか環境を変えたいと球団にトレードを直訴するのである。

先輩・柴田の存在に感謝


 男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。移籍志願した約1週間後、津野浩とのトレードで日本ハム行きが決まるのだ。3年連続で開幕投手を務めた津野が交換相手と高く評価されたのも、日本ハムの土橋正幸新監督が、評論家時代に起用法の定まらない便利屋・金石を「もったいない」と見ていたからだという。正直、パ・リーグでプレーすることに気乗りしなかったが、自ら出ていくことを希望した手前そんなことも言っていられない。まだ交流戦もない時代、自分が結果を残さなければ、カープやセ・リーグも笑われるという気持ちも強かった。ベテランと言われる年齢に差し掛かっていたが、エースの西崎幸広を初めとした新しい同僚たちは、投手王国の広島から来た金石をことあるごとに立ててくれた。年上の技巧派右腕・柴田保光も、「オレにとっては金石みたいによく走ってくれる人がきてくれて、本当に助かっているんだ。あいつと一緒に走れば、自然と量も増え質も上がる」と歓迎した。

日本ハム時代、寿司屋で受けた週刊ベースボールの取材


 これには金石も「あの人、すごく練習が好きなんですよ。見ていると、ついつい一緒に練習しちゃうし……。だからコーチもね、やるっていうことを分かっているから、全然何もいわないんですよ。調整も自由にやらせてくれます」と先輩・柴田の存在に感謝。バッテリーを組む田村藤夫のストレート中心のリードは新鮮で、変化球も生きた。いわば日本ハムの新しい職場環境がプラスに作用した。4月から順調に勝ち星を重ね、5月は3勝1敗、4完投、防御率2.31という成績で初の月間MVPを受賞。土橋監督は早くも「ウチのエース」と頼った。さらに打撃の負担から解放されたのも大きく、好物の寿司を頬ばりながら、グラビアを飾る週べ92年6月29日号では、自身の好調の原因をこう分析する。

「ボールそのものは特に変わってませんし……。気持ちの持ち方じゃないですか。トレード1年目ということで気持ちが張ってますからね。それと有難いのはDH制。バッターボックスに入らなくていいというのは、いいですよ。夏場なんて特に、ゴロを打って走るのはキツイですから」

広島時代86年、西武との日本シリーズ第8戦で東尾修から本塁打を放った


 広島時代には日本シリーズでホームランを放ったこともある打撃だったが、皮肉にもそれなりに打ててしまうからこそ、ベンチからは“9番目の野手”として期待され、負担になる。金石にはパ・リーグの野球が合った。前年まで40勝38敗のプロ14年目の中堅投手が、新天地でハーラートップを走る覚醒ぶりに世の中も驚き、『週刊現代』92年7月4日号では、「“落ちこぼれミドル”が“稼ぎ頭”に仰天変身!金石昭人投手の「人事異動」でわかった成功ポイント」なんて特集が組まれるほどだった。

「5〜6番手の投手だった金石でも、働く場所、周囲が変わるだけでピタッと居場所がはまる。サラリーマンの異動もまさにこれ」と大手メーカーの人事担当も絶賛する移籍劇。経営評論家が「スポーツもサラリーマンの世界も競争社会。どんな部署に行っても、周囲に自分の存在価値をトコトン主張しなくちゃ」と“金石人事”から学ぶポイントを真剣に解説する金石フィーバーである。結局、92年は28試合で14勝12敗、防御率3.77。チームトップの13完投と獅子奮迅の投げっぷり。契約更改ではほぼ倍増の年俸6200万円でサインして、チームの日本人選手では柴田、西崎に次ぐ高給取りとなった。

自身を突き動かした若手時代の屈辱


日本ハムでは先発、クローザーとして活躍した


 しかし、翌93年の開幕前に打球を右足甲に当てて骨折。6月に復帰するとチーム事情もあり、大沢啓二監督は金石の抑え起用を決断する。クローザーでもその安定感は変わらず、6勝3敗18セーブという成績を残した94年オフには、球団初の1億円プレーヤーとなる年俸1億3000万円に到達。12球団の抑え投手最高給となった。マウンド上では抑えても、打たれてもいつも通りのポーカーフェイス。若手投手は、「金石さんを見ていると、ああいう性格だから、ストッパーとしてやっていけるのだろうなあ、とつくづく思いますよ」と脱帽した。

98年の春季キャンプで巨人のテストを受け、合格。巨人のユニフォームに袖を通すことになった


 プロ初勝利まで7年目と時間は掛かったが、31歳で移籍した日本ハムではエース、さらにはクローザーも務める華麗なる転身。最後は巨人にテスト入団して、20年間のプロ生活をまっとうした。なお、入団時に話題になった金田ファミリー通算600勝だが、金石の通算成績は72勝61敗80セーブできっちり600勝に到達している。金石を突き動かしていたのは若手時代の屈辱だ。同じ合宿の一軍選手はナイターなのでぐっすり眠れるが、自分のような二軍選手は眠い目をこすりながら、昼にはファームの試合に出なければならない。あとから入ってくる若手が次から次へと一軍デビューする中、焦りの中で当たり前の毎日が過ぎていく。のちに金石自身は、あの長い下積み生活が30代の飛躍に繋がったと、週べのインタビューで、過去を噛みしめように振り返っている。

「僕はPL学園のときには補欠でしたから。ずっと日の当たらないところにいました。だから、使い減りしてないんです。大器晩成といったところでしょうか。甲子園に出ても1試合も投げずじまい。プロに入ってからも、体ができてませんでしたから、じっくりやれたのもよかったんでしょうね」
 
文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング