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よみがえる1958年─69年のプロ野球

阪神・村山実は言う。「私の馬力は、息切れをするのか」/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙


試合後の取材風景


 今回は1962年、東映─阪神の日本シリーズ第2戦の記事をアレンジし、お届けする。

 主人公は阪神・村山実。自身は、「私は、いいところまではいくが、エンディングがまずい。私の馬力は、息切れをするのか」

 自著『炎のエース』(小社刊)と、この試合を振り返った箇所を結んでいた。

 全身全霊、誰が相手でも、どんな試合展開でも全力で投げ抜く姿は、ザトペック投法と言われた。あの天覧試合ではないが、最後に崩れる試合も確かにあった。

 ただ、決して太く短くというわけではない。35歳までマウンドに立ち、大卒ながら通算222勝。兼任監督として33歳で防御率0.98もマーク。最後の最後まで熱く燃え続けた男だ。

 以下は試合ではなく、試合後の選手の表情を中心に書く。



 甲子園での第1戦、阪神が延長10回裏、吉田義男のサヨナラ打で勝利を飾ったあとの第2戦だった。

 先発の村山が快投を見せる。8回一死から吉田勝豊にポテンヒットを打たれるまで、なんとパーフェクトピッチング。打線は4回に2点、8回には歌手・島倉千代子さんとの交際で話題となっていた藤本勝巳が3ランを放ち、5点を援護。村山は結局、2安打完封で阪神が2対0と快勝を飾った。

 村山がベンチに戻ると、藤本定義監督が身をもたせるようにして握手し、「ムラ、おめでとう」と声を掛けた。

 そのあと、阪神のダグアウトからロッカーに通じる廊下の角にあるサロンの前に、大きな人垣が5つつくられた。

 一番大きな塊が村山、その次に大きいのが藤本監督、三番目が捕手の山本哲也、四番目が猛打賞の藤井栄治、五番目が藤本だ。

 村山は完全試合について聞かれ、「しんどかったですわ。でも、惜しかったな。(吉田の場面は)哲さんからアウトコースのサインが出ていたんですが、インコースに行ってしまいましてね。哲さんも完全試合できるぞと必死になってサインを出してくれたんですが……。記録は4回くらいから意識しました。ひょっとしたらと思いまして」

王は言う。「きょうの村山さんは打てない」


 体調は万全ではない。この年ずっと苦しめられてきた右手指の腱鞘炎があり、6回を過ぎると冷たくなり、ベンチではずっと手袋をし、マウンドでも最初は握りこぶしをつくって息を吹き込んで温めていたが、塁審に注意され、やむなく、わきの下に手を入れて温めながら投げた。

 10月(13日)にしては暖かかった、この日の気候が村山を助けたと言ってもいいかもしれない。

 リウマチの持病もあって、5人の中で一人、椅子に座った藤本監督は「村山のパーフェクトは惜しかったですね。意識していましたか」と聞かれ、

「むろん意識していた。こっちは攻める一方でよかったんだからね。パーフェクトをやらせてやりたかった」

 話ながらライターをタバコの近くに持っていき、そこですでにタバコに火をつけているのに気づき、ひっこめた。淡々としてしゃべっているように見えたが、興奮しているのだろう。

 目からも試合中に見せる鋭い眼光が消え、思いなしか、少しうるみを帯びているように見えた。

 村山の張りのある声が響く。

「ここまで来たら日本シリーズもいただかないとね。いや、きっと日本一になってみますよ」

 観戦した巨人王貞治

「きょうの村山さんのボールを打てる人はいないでしょ。バッターが悪いんじゃなく、村山さんがよすぎるんだ」と言った。

 この時点では完全に阪神有利に思われた。

 流れを変えた第3戦についてはまたいずれ。
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