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よみがえる1958年-69年のプロ野球

東映・山本八郎が近鉄に移籍。「僕は監督さんに給料をもらっているわけじゃない」/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙


生まれ変わって出直します


 今回は暴れん坊、ケンカ八とも言われ、短気でラフプレーも多かったが、純情一途で東映ファンに愛された山本八郎の移籍話だ。



 1961年、水原茂監督となってからおとなしくなっていた山本八郎内野手だが、2人の間は徐々にぎくしゃくし始めていた。

 1962年になると、さらに溝が深まる。この年7月14日の大毎戦(神宮)で若生智男から右ヒジに死球を受け、山本がバットを投げつけたことがあった。幸いバットは右方向に飛んで大事には至らなかったが、怒ったのが水原監督。治療のためベンチに戻った山本に厳しく注意。山本に水を持ってきたトレーナーを「やめておけ」と一喝した。

 山本も一塁ベース上で若生に頭を下げ謝罪したが、水原監督は、「山本の行動は多くのファンの前で恥ずべきものだ」と話した。

 さらに8月22日の南海ダブルヘッダー(神宮)で1試合目に途中交代となった山本は2試合目の前、水原監督に「足が痛いので2試合目は休ませてもらいます」と申告した。水原監督が「第1試合で代えられたからか」と言うと「両方です」と返答した。

 激怒した水原監督が「だったら帰れ。もうユニフォームを着る必要はない」と言うと、「監督さんに給料をもらっているわけじゃないから、あす出てきます」と捨て台詞。このとき山本は記者たちに「近鉄にでも行きたいよ」とポロリ。この話を聞いた近鉄・別当薫監督が「ほんとか。それはうちもほしいよ」と大喜びした。

 翌日、山本が謝罪し、一応和解となったが、両者の関係は修復不可能なものとなっていた。

 その後、山本の移籍話が新聞をにぎわせる。本人は「僕は大川社長を崇拝しているし、東映という球団に人一倍愛着を持っている。ユニフォームを脱がされるならいっそ大阪に帰って家業の花屋でもやりたいよ」と言っていたが、11月20日になって球団が山本を呼び出し、移籍を通告。27日には近鉄入団が決まり、「また生まれ変わって出直します」と話していた。
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