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愛すべき助っ人たち

「なぜサイクルヒットについて質問がないんだ?」“怪物”と“野球博士”、相反する異名の助っ人【愛すべき助っ人たち】

 

「日本の野球を進化させたのは私」


65年には南海・野村[右]とタイトル争いを繰り広げたスペンサー


「なぜサイクルヒットについて質問がないんだ?」

 もし今日、選手がサイクルヒットを達成したら、その試合でチームの優勝が決まったなど特段の事情でもない限り、その選手には記者からサイクルヒットについての質問が殺到するはずだ。だが1965年、阪急(現在のオリックス)でサイクルヒットを達成したダリル・スペンサーに、サイクルヒットについて聞く記者は1人もいなかった。そこでスペンサーは記者たちにサイクルヒットが貴重な記録であることを解説。これによって、日本にサイクルヒットの概念が本格的に伝わり、それまでの記録も見直されることになった。なお、スペンサーのものはプロ野球24度目の達成で、延長戦で達成されたものとしては4度目のものだ。

 メジャー通算1098試合出場という実績を誇り、64年に来日。すでに34歳となっていたが、身長190センチという体格もあり、1年目から36本塁打を放つ。さらには走塁では“殺人スライディング”で相手の野手を吹っ飛ばして「怪物」、「怪人スペンサー」などと呼ばれた。一方で、卓越した理論家でもあり、守備や走塁などさまざまなセオリーをチームメートに伝えて「野球博士」の異名も。のちに「日本の野球を進化させたのは私。いまも私は日本で“ドクター・ベースボール”と呼ばれたことを誇りに思っている」とスペンサーは振り返っていたが、事実、その影響を受けた阪急ナインは多く、それが阪急を黄金時代に導いたことは確かだろう。

 前述のサイクルヒットもあった65年には三冠王をうかがう南海(現在のソフトバンク)の野村克也にとって本塁打を量産するスペンサーは最大のライバルに。ラフプレーで敵視されていたこともあって徹底的に歩かされ、バットを逆に持って打席に入ったこともあったが、終盤に自身の交通事故で骨折、離脱。最終的に野村が戦後で初の三冠王となっている。

 阪急が初のリーグ優勝を飾った67年には30本塁打を放ったスペンサーだが、翌68年オフに退団。71年にコーチで復帰、すぐに選手も兼任となったが、結果を残せず2年で退団、現役を引退している。

写真=BBM
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