離脱が日本一の起爆剤に
現在の千葉ではなく、その前の川崎でもなく、東京に本拠地を置いていた時代のロッテ。まだニックネームはオリオンズだ。東京の下町、まだ戦争の爪痕も随所に残る南千住をナイターの光で照らした“光の球場”東京スタジアムは、ロッテの歴史を凝縮した球場といえるかもしれない。まだチームが大毎だった1962年に完成すると、後楽園球場から本拠地を移して、チーム名も64年に東京、69年からはロッテとなっている。この間、東京ラストイヤーの68年に入団して、チームが初の日本一に輝いた74年までプレーしたのがジョージ・アルトマンだった。
入団したときには35歳になっていたものの、メジャー通算101本塁打の実績を誇り、1年目から打率.320、34本塁打、100打点をマーク。打点ではタイトルに輝き、三冠王も狙える活躍だった。当時の永田雅一オーナーは「アルトマンこそ(68年4月に暗殺された)キング牧師の後継者になれる男だ」と絶賛した。オーバーな表現で“ラッパ”と呼ばれたオーナーの面目躍如というべきか。確かにアルトマンは敬虔なクリスチャンでチャリティーにも熱心、197cmの長身もあって“あしながおじさん”とファンには親しまれた。
70年には打率.319、30本塁打でロッテとなって初のリーグ優勝に貢献。東京スタジアムでは唯一の歓喜となったが、アルトマンは
巨人との日本シリーズでは徹底的に歩かされ、ロッテは破竹のV9を謳歌していた巨人には届かなかった。
次にロッテがパ・リーグを制したのは74年だ。このときのパ・リーグは前後期制。またしても三冠王に迫る勢いで前期から打ちまくっていたアルトマンだったが、後期は8月に離脱している。当初は痔が悪化したものと思われたが、検査の結果、初期の大腸ガンが見つかり、そのままアルトマンはシーズンを棒に振ることに。これで一丸となったナインは後期を制し、その勢いのままプレーオフで黄金時代の阪急(現在の
オリックス)を撃破。日本シリーズでは巨人のV10を阻んだ
中日を下して、日本一に輝いている。
ただ、アルトマンは病気に加えて功労金の問題がこじれてオフに退団。
阪神で1年だけプレーして帰国している。
写真=BBM