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逆転野球人生

まさかの大型トレードで阪神へ! 打撃が弱点の真弓明信が「史上最強の一番打者」になるまで【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

入団会見は喫茶店で


阪神時代の真弓


「ぼ、ぼく、トレードですか?」

 その選手は、グラウンド上にコーチの姿を見つけるなり、駆け寄って大きな声で尋ねた。ついさっき、練習中に地元テレビ局のアナウンサーが来て、いきなり「トレードですが、どうですか、阪神は?」と質問してきたのだ。慌ててコーチに確認すると、「そんなバカなことがあるか。練習せんかいッ」と一笑に付されたが、嫌な予感は消えることはなかった。翌日は、平和台球場に大リーグのシンシナティ・レッズがやってきて、巨人・クラウン連合チームと対戦することになっていた。あの王さんと一緒のチームでプレーできると喜んでいた若者は、試合どころじゃなくなってしまう。

 1978年11月17日、福岡大の練習グラウンドでの出来事を真弓明信は一生忘れることはないだろう。当時、プロ6年目。長い下積み生活を経て、ようやくショートのレギュラーを掴んだばかりだった。身長174cm、入団時の公式プロフィールでは体重68キロの細身の体型が話題となり、チームが西鉄ライオンズから、太平洋クラブ・ライオンズへと変わった72年秋にドラフト3位指名を受けた。

 午前中は電話の敷設関係の末端事務をとりながら、午後から野球の練習をする社会人野球の電電九州でプレーしていた真弓は、まだ入社1年目にもかかわらず退社するのは不義理になると悩み、指名されたのが地元・九州のライオンズでなければプロには入っていなかったという。ただ、プロといっても、当時のパ・リーグの球団経営は厳しく、ライオンズも遠征時は球団側がホテルを用意するだけで、選手は交通費と1日5000円の食費を渡され、洗濯もすべて自分でやった。選手自ら練習用ボールの汚れを消しゴムで落として再利用する財政難で、真弓の入団会見も5、6人の客が入れば満席という平和台球場近くの喫茶店「シロ」で行われたほどだった。

野球人生を大きく変えた縁


地元・九州のライオンズにドラフト指名されプロ入り。当時の球団名は太平洋クラブだった


 1年目の春先、デビュー間もない阪急戦で2つの失策をやらかし二軍送りに。ファームでは顔に死球を受けるアクシデントもあったが、7月にアメリカ野球留学のメンバーに選ばれ渡米。1Aのローダイでプレーするが、ギラついた同僚選手と長距離バス移動を繰り返すハングリーな環境で己の甘さを思い知らされる。足にはそれなりに自信があったが、その小さい体はあまりに非力だった。帰国するとすぐ、パワーとスピードの必要性を痛感し、同僚の加藤博一と福岡市内のトレーニングジムへ通った。

 アメリカの若手選手は、メジャー昇格のためにライバルを蹴落とし、自分の長所を売り込もうと常に全力でプレーしていた。努力して這い上がってこいという環境で、頼れるのは自分だけだ。数カ月の米留学だったが、真弓には強烈な体験だった。非力で使われないのなら、俊足で内野安打を稼ごうと左打者転向を目指し、室内練習場で真夜中まで打ち続けたのもこの頃だ。ちなみに自著『猛虎は死なず』(ベースボール・マガジン社)によると、真弓のあだ名の“ジョー”は、「あしたのジョー」の矢吹丈と顔が似ていたからではなく、アメリカの場内アナウンスが「まァーゆみ」とうまく発音できなかったので、向こうの人が言いやすい“ジョー”が定着したものだという。

 だが、球団からの期待はほとんど感じられなかった。自身の背番号がわずか1年で「2」から「42」へ変更されることを知ったのは、なんとキャンプイン直前に寮で偶然目にした地元のスポーツ新聞の小さなベタ記事だった。オレはそんなもんなのか……と悲しさはあったが、心は折れなかった。プロ3年目の75年の週べ名物コーナー「12球団週間報告」では、「バッティングがサッパリで“もうダメ”と見られていた選手」とか、「代走か守備要員に過ぎなかった真弓」と崖っぷちの若手であることが強調されているが、首脳陣から「外野ができるなら一軍へ上げてやる」と言われ、馴れない外野を駆け回った。しかし、4年目はわずか18試合の出場で打率.111と低迷。ファーム暮らしは昼に試合で夜は時間が空くため、気晴らしに中洲の飲み屋にも通った。

77年から球団名はクラウンライターになった


 それでも、5年目の77年に俊足の内外野守れる便利屋として頭角を現す。主に外野中心で起用されるも、終盤に首脳陣から「来季は内野手で使う」と告げられた翌78年、遊撃レギュラーの広瀬宰がぎっくり腰になり、ファームから呼ばれた真弓が、千載一遇のチャンスをものにするのだ。「一番・遊撃」に定着すると、打率.280、8本塁打、34盗塁でベストナインに選ばれ、オールスターにも初出場。自身初の規定打席にも到達した。春先のキャンプで同室の先輩・基満男は、真弓に対してこんなアドバイスを送ったという。

「手首が強いのが彼の特徴だけど、それは(スイングの)最後に生かすもんだということを、まず話したんです。で、それ以前の段階で、手首に頼らないバッティングをさせるために、ボクが中西(太)さんから教わった“下半身打法”を伝授したんです」(週刊ベースボール90年9月24日号)

 やがてこの縁が、真弓の野球人生を大きく変えることになるが、それはもう少しあとのことである。苦節6年、ようやくレギュラーを手に入れた。結婚して、娘もできた。25歳の真弓明信は、生まれ故郷の九州で夢をかなえつつあった。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。

大型トレードで阪神へ


78年オフに行われた阪神入団会見。右端が真弓


 当時、チームはクラウンライターライオンズと名乗るも、相変わらずBクラスの常連で財政難は続いていた。球団経営を立て直す切り札として、ドラフトでは昭和の怪物・江川卓(法大)を果敢に1位指名するも入団を拒否され、78年10月12日の秋季練習中に西武への球団譲渡が発表される。豊富な資金力を誇る新生西武ライオンズは、チームの目玉商品となる誰もが知っている看板スター選手を欲していた。ターゲットになったのは、阪神で“ミスタータイガース”と呼ばれた田淵幸一だった。もちろん、田淵クラスの大物を獲るには主力数人の放出は避けられない。西武監督の根本陸夫が福岡から大阪へ飛び、阪神の小津球団社長と交換選手の交渉を行っているとスポーツ新聞を賑わせていた。『トレード大鑑』(ベースボール・マガジン社)には、78年11月14日に大阪・梅田の阪神本社ビルで交わされた、こんな小津・根本会談が再現されている。

「田淵が欲しい」

「ならば真弓を出してくれるか」

「とんでもない。真弓を出したら博多で暴動が起きる」

 そうして、11月18日、平和台球場のレッズ戦でライオンズナインが九州のファンに別れを告げた翌日、真弓は球団事務所に呼び出され、坂井保之球団代表から阪神へのトレードを告げられるのだ。阪神は田淵と古沢憲司、そして西武は真弓明信、若菜嘉晴竹之内雅史竹田和史の2対4の大型トレードである。田淵放出と江川卓の「空白の1日」で、この年のストーブリーグは阪神を中心に展開されていた。1年前に博多駅前の式場「スカイパレス」で結婚式をあげた九州生まれの妻は、すでに西武ライオンズのホーム所沢へ引っ越す準備をしていたが、突然の大阪行きにも「所沢へ行くのも、大阪へ行くのも一緒のことでしょ」と平然と口にしたことにも救われた。ちなみに真弓が妻と初めて顔を合わせたのは、あの入団会見をした平和台球場近くの愛と青春の喫茶店「シロ」である。ともに阪神へ移籍する若菜は柳川商時代の同級生で家族ぐるみの付き合いをしていたので、妻同士が相談した上で神戸市内の同じマンションを借りた。

“史上最強の一番打者”で日本一に貢献


阪神で長打の打てるトップバッターとして頭角を現していった


 思えばライオンズに入団した年、真弓はチームの東京遠征で泊まる水道橋グランドホテルから歩いて、後楽園球場の巨人対阪神戦を観に行ったことがあった。内野席は完売で買えず、外野から立ち見で目撃した超満員のスタンドに圧倒される。当時の閑古鳥の鳴くパ・リーグでは無縁の光景だ。「こんな満員の観衆の中で、一度野球をやってみたいなあ」と心からうらやましく思えた。その舞台に自分が立つことになったのだ。

 実は阪神では田淵放出はかなり早い段階での決定事項で、ブレイザー監督の就任が決まり、中西太打撃コーチが契約書にハンコを押す前に小津球団社長は、その交換要員をどうするか中西に相談してきたという。

「近鉄の梨田(梨田昌孝)か有田(有田修三)のどっちかにするというから、“新しいチームを作るのに田淵じゃアカンいうて、それやったら同じことや”ってボクは反対したんよ」(週刊ベースボール90年9月24日号)

 評論家時代から、スイングがシャープで力強いと真弓のポテンシャルを評価していた中西は「必ず大成する」という確信のもと、真っ先に交換要員に指名するよう球団に進言した。要は相手に強く望まれる形で新天地へ移籍できたわけだ。背番号7を与えられた真弓は、「一番・遊撃」として躍動する。阪神1年目に自己最多の13本塁打を放ったと思えば、翌80年の29本塁打は、宇野勝(中日)に抜かれるまで遊撃手の年間最多アーチだった。83年には打率.353で初の首位打者を獲得。85年には、打率.322、34本塁打、84打点で猛虎打線のトップバッターとしてチームの日本一に貢献。32歳にして、他球団なら四番が打てる“史上最強の一番打者”と称され、女性歌手とデュエットしたレコード『愛はふたたび』をリリースする人気ぶりだった。守備位置は遊撃から二塁、さらに外野へと目まぐるしく変わり、あらゆる打順を経験したが、背番号7は飄々と自分の仕事をし続けた。

「バッテリー以外はどこだってできるんだ。昔からやってきたんだからどうってことないですよ。打順が変わるのは、まあ、しょうがないでしょう。いろいろ事情もあるんだから……」

引退直後に語った“野球観”


掛布[左]、岡田[中]を支えながらチームの勝利に貢献した


 決して大きくない体で試合に出続ける真弓は腰痛や下半身の故障と戦いながら、バットを振り続けた。掛布雅之岡田彰布ら生え抜きスターより年上だったが、常に一歩下がって阪神を支え、気がつけば彼らがチームを去り、自身が最年長選手になっていた。40歳で建てたマイホームには大鏡のついた素振り用の部屋を作り、シーズン代打30打点の日本記録も樹立した94年には、春先に両足の故障で出遅れ、若手に交じり二軍の教育リーグに出場する40歳の背番号7の姿があった。

「プロの世界でよく『オレは(監督に)ホサれている』『オレは嫌われている』という話を聞きますが、それは単なる言い訳なんですよ。よくサラリーマンが上司の悪口を言っているじゃないですか。ただのグチにしか聞こえないわけでしょう。そういうことは自分の愚かさを言ってるようなもんでね。(中略)ただ自分の信念でやれるかどうか。監督の好き嫌いは問題外なんです」

 現役引退直後に週べインタビューでその野球観を語った真弓は、95年に阪神から戦力外通告を受けたあともしばらく鳴尾浜でトレーニングを続けて、他球団からの誘いを待ったが、42歳の現役最年長打者にオファーはなく、ユニフォームを脱いだ。通算1888安打、292本塁打、200盗塁。文字通り完全燃焼の23年のプロ生活だった。ライオンズで6シーズン、そしてタイガースでは17年間を過ごし、のちに監督まで務めることになる。

 78年オフ、メーカー勤務の会社員の父親に阪神へのトレードを報告すると、厳格な父はこう言ったという。

「男の世界に転勤はつきものだ。いろんな土地のにおいをかぐのもまた勉強だ」

 まさに真弓明信は、福岡から大阪への“転勤”をきっかけに野球人生を大きく変えてみせたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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