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逆転野球人生

阪神を追われ29歳で米3A日本人初のコーチ就任後、大洋で電撃復帰…流浪の生涯一捕手・若菜嘉晴【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

長嶋監督が高評価で自信


クラウン時代の若菜


「お前、三十以上になったらキャッチャーというものがどういうものか、その楽しみがわかってくるよ。三十にならなきゃわからん」

 現役晩年の野村克也にキャッチャーのノウハウを教えてもらおうと頭を下げると、そんな言葉が返ってきた。質問した若菜嘉晴は、まだ20代中盤の若さだった。柳川商高では、のちにプロでもチームメイトとなる真弓明信と同級生で、中学時代は相撲部屋からもスカウトされた身長184cm、体重76kgの大型捕手として鳴らした。71年に西鉄ライオンズからドラフト4位指名を受けるが、当時の西鉄は“黒い霧事件”の直後で低迷期にあり、1位から3位の選手が全員入団拒否したため、実質1位の若菜は上限一杯の年俸180万円でプロ生活をスタートさせる。

 だが、チーム経営は苦しく、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと名前が変わり、ときに消防署のグラウンドを借りて練習することもあった。二軍生活が続いた若菜もオフになると郵便配達や酒屋のアルバイトをして食いつないだという。プロ3年目の74年に一軍デビューするも、その年が6試合、高校の同級生と結婚をした翌75年も12試合しか出れず、ヒットは一本も打てなかった。そろそろクビかもしれんな……なんて覚悟を決めていたら、意外なところから若菜にラブコールが送られる。巨人監督の長嶋茂雄である。

「実は75年のオフに、僕はクビになりかけてたんですよ。そんな中で、秋に恒例となっていたジャイアンツとのオープン戦があった。そのときに当時の長嶋茂雄監督が僕のスローイングや動きを見て、「あの選手いいな、欲しい」と言ったらしいんです。次の日の西日本新聞に、長嶋がいいと言った、という記事が載って、そうしたら球団が、長嶋さんが言うんだったらもう一年置いておこうかって、なんとかクビがつながった」(週刊ベースボールONLINE「わが思い出のゲーム」)

 若菜は自著『プロ野球が危ない』(学研)で、当時の心境を「あの長嶋さんがいうんならオレには絶対素質がある。絶対一軍で活躍できるようになるはずだ」と思えるようになったと振り返っている。そして、77年の4月に2本の満塁アーチを放ち名前を売り、プロ6年目にしてオールスターにも監督推薦で初出場を果たすのだ。球宴では、12球団の中でクラウンだけメッシュのユニフォームがなくて、球団に作ってほしいと頼んだら、なんとか若菜含む出場選手の3人分だけ作ってくれたという。この77年は103試合に出場して打率.292、4本塁打、29打点とようやくレギュラーを掴み、さあこれからというときに、あの球史に残る大型トレードの当事者になるのだ。

刺激的だった阪神の環境


2対4の大型トレードで阪神に移籍した。右から2人目が若菜


 78年秋、チームは西武ライオンズへと生まれ変わるが、翌年から本拠地になる埼玉の所沢という土地には遠征でも行ったことがなかった。そんなタイミングで阪神へのトレードが決まったと球団からの電話で告げられるのだ。しかも、相手のひとりは“ミスタータイガース”ことスーパースター田淵幸一である。阪神は田淵と古沢憲司、そして西武は若菜、真弓明信、竹之内雅史竹田和史の2対4の大型トレードが成立する。馴染みのない埼玉よりは、九州から近い関西のセ・リーグ球団の方がいい。若菜はこの移籍を喜び、入団会見では「肩では田淵さんに負けません」と強気に宣言した。

 新天地では1年目から9本塁打、打率.303を打ち、打撃ベストテンの第10位にランクイン。ダイヤモンドグラブ賞も獲得した。20代後半にかけて全盛期を迎えた若菜は、オールスター常連の強肩強打のキャッチャーとして定着する。阪神の岡田監督は週べ連載「岡田彰布のそらそうよ」の中で、自身がプロ入りした時の正捕手についてこんな印象を語っている。

「やっぱり若菜さんといえば肩よ。とにかく肩が強かった。捕球したあと、座ったまま二塁に送球し、盗塁を刺したこともあった。“強肩若菜”の印象は、ホンマ、強く残っているよね」

 パ・リーグでは人もまばらな平和台球場でプレーしていた若菜にとって、満員の甲子園でテレビ中継も多い阪神の環境は刺激的だった。給料はすぐ1000万円台を超えたが、大阪の夜の街に阪神の主力選手が遊びに出掛けると、酒代を請求されることはほとんどなかった。店に居合わせた他の客がタニマチとなって、支払ってくれるからだ。皮肉にも若菜は阪神で顔が売れるにつれて、プライペートが荒れていく。派手な女性スキャンダルや私生活の危ない交友関係を週刊誌に書き立てられ、家族は九州に戻り、本人は阪神の選手寮「虎風荘」に入ったこともあった。それらの騒動の渦中、82年8月には、古傷の左肩を痛めたという理由で二軍落ち。しかし、傷が癒えても若菜の再昇格はなく、「ちっとも一軍に呼んでくれない。使ってくれる球団に行きたい」とマスコミに愚痴ったのが、首脳陣やフロントの逆鱗に触れ、完全に干された形となる。

 その秋のドラフト会議で球団は法政大の捕手、木戸克彦を1位指名。若菜はロッテ日本ハム相手にトレードを打診したがダメだったと岡崎球団代表から知らされ、その数日後には小津球団社長から「キミがチームにいると悪影響を及ぼすし、キミも居づらいだろう。球団としてはトレード先を探したけれど、残念ながら見つからなかった」と事実上の戦力外通告を受けるのだ。思ったことを口にする性格で、私生活ではトラブル続きの若菜を獲得するチームはなかなか現れず、83年2月18日、当時としては異例の大リーグのニューヨーク・メッツ傘下と正式契約を交わしたことを発表。阪神とメッツは友好関係にあり、「向こうで1年間はプレーできる」という話だった。2Aジャクソンに所属し、給料は月に1200ドル(約28万円)、契約期間は7カ月。29歳の若菜は3月7日夕方、50人を越える関係者に見送られ、パンアメリカン機20便で米フロリダ・タンパに飛び立った。

選手兼任とは名ばかりの指導者生活


 ライオンズ時代に同僚数人と1Aの教育リーグに派遣された経験はあれど、今回はたったひとりの渡米だ。しかも、いざチームに合流すると、紅白戦に出たかと思えば、メジャーのオープン戦でブルペン捕手を務める中途半端な立場だった。当時の報道を確認しても、2Aジャクソンか、3Aタイドウォーターか、どちらでプレーしているのか情報が錯綜している印象だ。キャンプ打ち上げの前日に、今回の若菜のキャンプ参加はトライアウト扱いであることを告げられ、なんと「マイナーのコーチになってくれないか」とオファーされる。もはや渡米手続きを手伝ってくれた阪神の三宅通訳もどうすることもできなかった。結局、タイドウォーターで監督を務める、巨人でプレー経験のあるデーブ・ジョンソンの助け舟もあり、3Aで選手兼任コーチを務めることになるのだ。週べ83年5月14日号の「日本人で初めて米球界のコーチに就任した若菜嘉晴 いま、そして来季への心境を激白」特集によると、ジョンソン監督はこう若菜を諭したという。

「ヨシ、今のウチは若手にチャンスを与える大事な時期に来ている。AAA級のワクは22人しかないんだ。キミにチャンスを与えたいんだが、こういう状態では仕方がないんだ。何か選手にアクシデントが起こったとき、すぐに選手として戻れる。そのために練習も他の連中と同じようにさせる。だからコーチとしてチームに残ってほしい」

 若菜コーチの仕事は地元の試合前に30分、200球ほどの打撃投手を務め、ブルペンで投球を受け、試合中は一塁ベースコーチに立つこと。そんな時間の制約がある中、ランニングと自身の打撃練習は欠かさなかった。孤独な異国での選手兼任とは名ばかりの指導者生活。オレはいったいどうなるのか……。1日の終わり、日本から持ってきた演歌のカセットテープの歌声が骨身に沁みた。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。

緊急帰国で大洋へ


83年シーズン途中から89年開幕直前まで大洋でプレー


 83年6月、大洋ホエールズのベテラン捕手・辻恭彦が左腕を骨折する重傷を負い、代役捕手として若菜に白羽の矢が立つのだ。6月30日に緊急帰国した若菜は、7月1日に入団発表。3日には大洋のユニフォーム姿で初練習だ。大洋監督の関根潤三は、長嶋茂雄招聘までの繋ぎの監督と揶揄されていたが、巨人コーチ時代にタイドウォーター監督のジョンソンとは同じ釜の飯を食っていた。さらに関根はその長嶋本人にも、若菜獲得の了解を取って動いた。電撃的な日本球界復帰を伝えられ、嬉しさのあまり若菜は電話口で号泣したという。

 29歳、年俸1000万円、背番号9での再出発。大洋では徐々に出番を増やし、在籍3年目には自身初の130試合フル出場で、打率.268、7本塁打、44打点と完全復活。3年ぶりのオールスター戦にも選出された。巨人のウォーレン・クロマティが打席に入ると英語でやり返し、ときに乱闘騒ぎにもなったが、実はそのほとんどがお互いに球場を盛り上げるためのショーだったという。若菜は自著で舞台裏を告白している。

「両軍のベンチから選手やコーチが飛び出してきて、僕たち二人を左右に分けた。ジャイアンツの選手たちに引きずられていったクロウが、ほんの一瞬僕に向かって手を振っていたことに気づいたファンはいただろうか。それからというもの、僕はクロウをバッターボックスに迎えるたびに、「今日はどうする? また二人でショーをやろうか」と話しかけたものである」(プロ野球が危ない/学研)

 クロスプレーで脇にボールを挟んだまま、何食わぬ顔で走者に空タッチをしてアウトを取る職人技はテレビの『珍プレー好プレー』でも人気となり、若菜は大洋で6シーズンを過ごした。しかし、出場機会の減った88年には「ダイエーへトレードしてほしい」なんて移籍志願に加え、「今の首脳陣についていけない」などと暴言を連発。契約更改の席でも18%のダウン提示(年俸2480万円)をされると、「どうしてオレだけ戦犯なんだ」「オレは、加藤さんのようにゴマはすれない」と同僚批判までやらかし、球団側も解雇を考えたほどだったが、若菜が謝罪文を提出してひとまず一件落着。しかし、もはやチームに居場所はなく、89年開幕直前の3月31日に日本ハムへ電撃無償トレードで放出されるのだ。

日本ハムではバックアップ的存在として献身的にプレー。左は酒井


 新天地では正捕手・田村藤夫のバックアッパー的な役割だったが、ルーキー左腕の酒井光次郎を巧みにリードして二桁勝利に導き、「ボクに、プロのイロハから教えてくれて、自信と基礎を身に付けさせてくれた人ですから」と感謝された。日本ハムには35歳で移籍、通算1000安打も達成して、38歳を迎える91年シーズンまで在籍。激動のプロ生活が、球団納会の途中で大沢啓二に肩を叩かれ、「来季は若手に切り替えたい。すまんがお前も承知してくれ」とクビを宣告されて、唐突に終わりを告げたのも、また若菜らしい。

 福岡、大阪、アメリカ、横浜、東京と流浪の果てに、彼は20年間、プロの世界で生き延びたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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