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よみがえる1958年-69年のプロ野球

西鉄大逆転の立役者はやはり稲尾和久だった/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1963年編

 

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第6弾、1963年編が11月29日に発売。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1963年編表紙


一度は離脱と思ったが……


 好評いただいている『よみがえるプロ野球シリーズ』。今回は発売したばかりの1963年編から、西鉄の大逆転優勝について一部を抜粋し、紹介しよう。



 前年、中西太兼任監督、豊田泰光兼任助監督、稲尾和久兼任コーチと、当時全員20代の青年内閣でスタートするも、勝率5割を切る3位に終わった西鉄ライオンズ。

 オフには中西兼任監督との確執があった豊田兼任助監督が移籍を志願し、国鉄に。ただ、この際、西鉄は豊田分の給料に加え、高額のトレードマネーを得た。これを外国人選手の補強にあて、ウイルソン、バーマ、ロイと契約を結んだ。

 中西兼任監督は60年から左手首の故障に苦しめられていたが、春季キャンプでは「手首の調子もいいので、今年は全試合に出ます」と宣言。しかし、いざ開幕となると状態が悪化。監督だからベンチから外れるわけにもいかず、手首の故障がほかからは分かりづらかったこともあり、「なんで中西は出ないんだ」とヤジられることも多かった。

 チームも低迷。南海の快進撃もあって7月7日には14.5ゲーム差。7月を終えた時点でもまだ南海に13ゲーム差の4位だった。平和台球場は観客動員に苦しみ、福岡の新聞は「中西監督の批判を載せれば売れる」と言われた。

 しかし、助っ人三銃士の活躍もあって、そこから徐々に上昇。独走の南海ホークスを追い上げ、9月終わりには3.5ゲーム差。さらに10月20日の最終戦に勝利し、大逆転優勝を成し遂げた。

 すさまじい夏場の追い上げを支えたのは、やはり鉄腕・稲尾和久だ。

「カラスの鳴かない日はあっても西鉄のマウンドに稲尾が上らない日はない」

 と言われ、8月7日から9月10日までの28試合中20試合に登板。9月3日の南海ダブルヘッダー(平和台)では第1試合を3イニング投げて締めたあと、2試合目は敗戦投手ながら延長12回を投げ抜いている。

 投げさせ過ぎだと批判もあったが、稲尾は「以前のようにスタミナはなくなっている。しかし今はそれをカバーするピッチングを覚えたから気にすることはないよ」と、いつもの笑顔を浮かべていた。

 しかし、それはあくまで対外的なものだった。9月半ばにはブルペンでの練習中、どのように投げてもキャッチャーまで届かなかったことがある。そのあと一時離脱し、別府温泉で治療。本当はそのまま翌シーズンまで休むつもりだったというが、熾烈な優勝争いもあり、「今はそんなことは言えん」と6日ほどで復帰した。

 最終的には74試合、386回を投げ、28勝で最多勝には輝いたが、翌年以降、速球の威力は戻らなかった。
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