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若鷹ウインターリーグ奮戦記

川村友斗「自分の形が分かった」【若鷹ウインターリーグ奮戦記VOL.2】

 

プエルトリコ経由ホークスの主力打者へ。かつては柳田悠岐周東佑京が若鷹時代に同地のウインターリーグに参加して翼を磨いたことがある。今季が育成2年目だった川村友斗。オープン戦で打率3割5分超をマークした打撃力をもうワンランク上へ。プエルトリコ武者修行でたしかなヒントを得た。それは一体何だったのか。

川村友斗が吠えた


人生初の海外だったがチームメートが初めから明るく接してくれたので野球に集中できた


 プエルトリコ武者修行最終戦となった現地12月1日、RA12との一戦だ。ちなみにRA12はMLBで殿堂入りしたプエルトリコ出身の名二塁手ロベルト・アロマーが若手選手の育成を目指して2020年に創設したチームである。8回表、1点ビハインドながら二死満塁の大チャンスで打席が回ってきた。対峙したのは手足が長く中南米独特の変則的なリズムの投げ方をする投手だったが、川村は落ち着いていた。フルカウントからの低め直球をしっかり見極めて同点の押し出し四球をもぎ取ると、一塁へ歩く前に「よし!」と味方ベンチ方向へバットを掲げ、気合を込めたポーズを決めてみせたのだった。こんなイメージとはかけ離れたタイプの選手だったはずだ。

 川村は今回のウインターリーグ参加が「人生で初の海外だった」という。「まずパスポートを取得するところから始まりました(笑)。プエルトリコまではアメリカも経由して、移動だけでほぼ丸一日。すごく長かったです。正直、行くまでは不安もありました」。もともとメジャーリーグなど海外野球にさほど興味がなく、プエルトリコ行きが決まったときも「きっと暑いんだろうな」くらいしか頭に浮かばなかった。

 現地に着いて最初に驚いたのはロッカールームの雰囲気の違いだった。「野球自体が違うとはあまり感じませんでしたが、ロッカーで大音量の音楽がずっと流れていて。ラテンの音楽でしょうね。どんな曲か何一つ分からなかったですけど(苦笑)。もちろん言葉もできないですけど、みんな初めから明るく接してくれました。だから実際に現地に着いてからは苦労することなく野球に集中できました」。初めの頃はソフトバンクから同行した通訳に頼んでコミュニケーションをとっていたが、不思議と慣れるものでだんだん内容が理解できるようになった。しばらくすると少しの英語を駆使して自分1人でも言葉を返せるようになった。

前半は苦労したが、後半になるほど右肩上がり


試行錯誤しながら自分の打撃の形を確認できた


 開幕戦から2試合は「七番・センター」でスタメン出場したものの計2本の内野安打のみでアピール不足に終わると3戦目はベンチスタートに。その後は試合に出られない日もあった。「僕はホークスで育成選手。来季につながる成績を残さないといけないと思っていたので、焦りもありました」。

 川村は打撃自慢の左打ち外野手だ。仙台大学から入団して2年目だった2023年シーズンは、春先にその名を轟かせた。日本中がWBCで盛り上がっていた頃だ。ソフトバンクからは外野を守る近藤健介や周東佑京、牧原大成が侍ジャパンに招集されたこともあり、川村は育成枠ながら一軍オープン戦に呼ばれたのだ。当時の藤本博史監督は「経験値を積ませるため」と話していたが、川村は数少ないと思われたチャンスをしっかりモノにした。オープン戦は12試合に出場し打率.357、1本塁打の好成績を残し「支配下も近い」と指揮官に言わしめたのだ。

 しかし、同じ左打ち外野手が飽和状態だったチーム事情も相まって二軍に戻されると、結局は背番号を変えることのできないまま2年目のシーズンも終えることになった。「もっとあの舞台で、PayPayドームで活躍したい」。胸膨らむ思いがある一方で、もう1つの現実とも向き合わなければならなかった。「来季が育成で入って3年目。オフには自由契約になってしまう年です。来季は何としても支配下に上がらないと」。

 球団からプエルトリコ・ウインターリーグへ派遣されたのは期待されている証拠だ。この絶好のチャンスを生かさなければならない。なのに、出鼻をくじかれる結果に。「焦りましたけど、その原因は分かっていました。初めの頃はいろんなことを試しながらやっていたんです。(10月の)みやざきフェニックスリーグでは、今まで引っ張り傾向ばかりだったのでセンターや逆方向に強い打球を打つバッティングを心掛けていたんです。それを固めるのがこのウインターリーグの1つの狙いでした。僕はもともと打ち終わりで手首が返るタイプ。中南米の選手は“前を大きく”フォロースルーでとるので、それをやってみようと試したんですが自分には難しくて」。

 新しいことに実戦の中で挑戦できるのがウインターリーグの大きなメリットである。川村の行いは決して間違っていなかったが、結果がついてこなかった。「フェニックスリーグでやっていた形に戻しました。もう1度形をつくるのに少し時間を要しましたが、後半戦になるとヒットが出るようになりました」。11月22日までの出場9試合は22打数4安打で打率1割台と低迷していたが、終盤の出場6試合では5戦連続安打を含む17打数6安打と大きく盛り返した。「試行錯誤がありましたけど、自分の打撃の形を見つけるというのがウインターリーグでの一番のテーマだったので、結果的にそれが確認できたことが何よりの収穫だったと思います」。

結局バッティングはタイミング


来季勝負の3年目へ確かなヒントが見つかったと語る川村[右]。左はチームメート


 ソフトバンクでは若手時代にプエルトリコ武者修行を経験しその後主力バッターへと成長した選手が過去にいる。11年オフには柳田悠岐が海を渡り、18年オフには周東、19年のオフには三森大貴が同地の土を踏んだ。なかでも周東は当時育成選手。この翌年3月に支配下登録を勝ち取った。また、柳田はかつてメジャーNo.1捕手と称されたイバン・ロドリゲスが同僚にいて「右足をゆっくり出せ」とアドバイスをもらい、それまでのすり足から足を上げて打つ打法を取り入れてブレイクのきっかけをつかんだ、という出来事があった。

 近年のプエルトリコ・ウインターリーグはメジャー級の選手が参加する例は少なくなっているようだが、川村にも1つ出会いがあった。「宿舎のアパートから球場に移動する車は何人かのチームメートと一緒になるんですが、去年までロッテでプレーした(アディニー・)エチェバリアがいたんです。彼とは結構話をしました。現地の野球はもちろん日本野球も知っていますから。彼にもいろんな技術の話をしてもらいましたが、『結局バッティングはタイミングだ』と言われました。その言葉も大きかったですね。いろんなことを考え過ぎていたけど、1周回って原点に戻れたという感じでした」。

 来季勝負の3年目へ確かなヒントは見つかった。「来年のオープン戦は『実力でお前を呼んだ』と言ってもらって、その中でしっかりアピールをしたいです」。プエルトリコ武者修行は終えたが、すぐに日本へ帰国したわけではない。ウインターリーグに参加した川村と田上奏大はプエルトリコを発つとシカゴを経由してシアトルへ向かった。野球の最先端施設として知られる「ドライブライン・ベースボール」で、プレーの動作解析やデータ収集を行い、科学的見地に基づいたパフォーマンス向上にさらに取り組む。福岡からやってきたリチャード生海松本晴ら8選手とも現地で合流した。20代前半は心も技術も体も伸び盛りの時期。どんな変身を遂げて来春のキャンプにやってくるのか。成長した姿が本当に楽しみだ。

文=田尻耕太郎 写真=福岡ソフトバンクホークス
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