ヤクルト初の日本一を牽引
1950年に国鉄としてセ・リーグに参加したヤクルト。初のリーグ優勝、日本一は78年のことだ。翌79年に同じく近鉄も初のリーグ優勝を飾り、ヤクルトと近鉄を初の歓喜に導いた助っ人としては長距離砲の
チャーリー・マニエルが目立つ存在だが、78年のヤクルトで忘れてはならない助っ人がデーブ・ヒルトンだ。のちにヒルトンは、マニエルと同様に関西の
阪神へ移籍しているが、ここではマニエルとは対照的な経験をしている。
ヒルトンは78年、春のユマキャンプでテストを受けて入団。極端なクラウチングの打撃フォームは「内角は打てない」とネガティブに評価されたが、開幕して早々、これをヒルトンは簡単に覆した。「内角は打てない」どころか安打を広角に打ち分けて、4月は打率.346、5月は打率.410で、リードオフマンとして打線を牽引。一方で、そのプレースタイルもチームを歓喜へと引っ張るものだった。ボテボテのゴロでも「野球は何が起こるか分からない」と全力疾走。当時から辛口の
広岡達朗監督が「スタートダッシュはヒルトンのおかげ」と賛辞を送り、優勝を逃した
巨人の
長嶋茂雄監督は「今年はヒルトンのファイティング・スピリットにやられました」と脱帽した。
夏場からは勢いは落ちたものの、最終的にリーグ8位の打率.317。19本塁打のうち8本は初回先頭打者本塁打で、これは当時のプロ野球記録だった。
ただ、広岡監督は守備にも厳しく、オフに39本塁打のマニエルが「守れない、走れない」と放出され、「あの守備では内野では使えない」とヒルトンの二塁守備を酷評。翌79年シーズン途中にフロントとの対立で広岡監督は退任したが、打撃も失速したヒルトンはオフに解雇されて、
ドン・ブレイザー監督に誘われて阪神へ移籍した。だが、迎えた80年は、現在は監督として阪神を率いている
岡田彰布のルーキーイヤー。ブレイザー監督が岡田ではなくヒルトンを起用したことで岡田を見たい阪神ファンから一身にバッシングを浴びてしまう。このトラブルは収まらず、ヒルトンは5月に退団。悲運のラストシーンとなってしまった。
写真=BBM