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逆転野球人生

西武を追われた元四番・鈴木健が、ヤクルトでカムバック賞を受賞できた理由【逆転プロ野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

黄金時代の西武で苦しい日々


西武時代の鈴木


「このまま二軍なら、トレードに出してください」

 ファームでどれだけ打っても上げてもらえない現状に絶望した若者は、二軍監督にそう直訴した。西武時代の鈴木健である。浦和学院では高校通算83本塁打を放ち、当時“キヨマー”と呼ばれた2学年上の清原和博と比較され、愛称は“ケンマー”。3年夏の甲子園で、あの伊良部秀輝(尽誠学園)が鈴木を意識して、4打席の対戦で18球すべてストレート勝負を挑んだ同世代のトップランナーでもあった。

 早大進学を表明していた鈴木だったが、身長187センチの超高校級スラッガーをプロも放っておかない。1987(昭和62)年11月18日、鈴木は同級生たちと富士急ハイランドでの遠足を楽しんでいた。クラスメイトと大ハシャギする17歳は、その最中に自分が「西武1位指名」されたことを知るのである。秋山と清原は右打者、ここに左の鈴木を加えたら、AKS砲の120発トリオが完成する――。ゆくゆくはポスト石毛宏典として三塁を任せられるだろう。黄金時代に突入しつつあった西武は、最強クリーンアップ形成を目指し地元の逸材の強行指名に踏み切ったのだ。

 ドラフト翌日、西武スカウト陣と根本陸夫管理部長が直々に浦和学院に指名の挨拶に訪れるも、退部届けを出していない鈴木とは接触できず。だが、深夜にまで及んだ家族会議で、早大への願書を提出しないことに決めた。いざプロ入りを決断すると、背番号8を与えられ、異例の早さの12月7日に入寮。入団発表の席上、カメラマンの前に立ち堂々とユニフォーム姿でポーズをとってみせるやんちゃ坊主に、坂井保之球団代表は「あんなに多くの報道陣を前にして、“似合いますか”なんて清原も工藤も言えなかったんだけどね」とその強心臓ぶりに驚いた。

87年のドラフトで西武から1位指名され、入団


 ベスト体重を7キロもオーバーしていたため、大好きなケーキを我慢するゴールデンルーキー。「秋山さん、清原さんには負けません。すぐに一軍? いけます。自信もあります」と豪語するも、守備・走塁面で課題も多く、1年目の2月には米国A級サンノゼ・ビーズ行きを通告される。アメリカでの武者修行は、142試合中、出場はわずか8試合。18打数1安打という惨惨たる成績で帰国する。プロの厳しさを痛感し、帰国後は目の色を変えて夜間のマシン打撃に取り組んだ。2年目は春先に自打球を当て二軍に降格するも、6月に一軍昇格すると近鉄戦でプロ初安打をマーク。翌90年にはファームで首位打者に輝き、4年目の91年にはなんとイースタンで打率.401を記録して2年連続のリーディングヒッターに。秋山や清原という球界を代表する長距離砲にパワーで対抗するより、とにかく自分は率を残そうとバットを振った。一方で二軍では敵なし状態も、黄金時代真っ只中の一軍では出場機会が限られ、和田博美二軍監督に「これ以上、何をしたらいいんですか?」とトレード志願したのもこの頃だ。鈴木はのちに当時のやるせない心境をこう回想している。

「(一軍で)固定されていないポジションはレフトしかなく、若手が入り込む余地は全くなかったです。入団してから4〜5年は一軍二軍を行ったり来たりでしたから、西武に入団したことを後悔したこともありましたね。歳の近い谷繁(谷繁元信)君は大洋、立浪(立浪和義)君は中日で1年目から一軍で活躍していましたから、もう少し早く一軍で活躍できる球団に入団していればと……今でもちょっと思いますね」(週刊ベースボールONLINE)

清原がFA移籍で去った年に飛躍


 85年からの10シーズンで9度優勝という黄金時代の西武で、若手がレギュラーを掴むのは至難の業だった。それでも、91年9月23日の近鉄との天王山で同点に追いつくプロ初アーチを叩き込み、92年には野村ヤクルトと対戦した日本シリーズで代打3ランを放った。転機は、3年連続ホームラン王のデストラーデがメジャー復帰のため退団した93年シーズンだ。プロ6年目、このチャンスをつかまなかったら野球人生が終わるとすら思った。片平晋作打撃コーチとマンツーマンで練習に取り組み、119試合で打率.270、13本塁打、51打点。翌94年には規定打席不足ながらも打率.350、12本塁打と完全に主軸打者の仲間入り。上体を柔らかく使う打撃は天才的で、四番の清原が「オレの下半身とケンの上体があったら50発、打率4割近く打てる」と絶賛するほどだった。

97年10月3日のダイエー戦で優勝を決める合サヨナラ弾を放った


 その清原が巨人へFA移籍した直後の97年シーズンが、鈴木には飛躍の年となる。2年前に森祇晶から東尾修監督へと代わり、黄金時代を支えた選手たちが立て続けにチームを去り、世代交代は急務だった。自分のことだけ考えてプレーしていた若者が、区切りのプロ10年目で初めて責任を強く感じた。シーズンを通して四番を務め、打率.312、19本塁打、94打点。10月3日のマジック1で迎えた本拠地・西武球場でのダイエー戦、自らサヨナラ弾を放ち、3年ぶりのリーグVを決める。オリックスイチローと並ぶリーグトップの得点圏打率.373の勝負強さを誇り、90四球もリーグ1位。初の最高出塁率(.431)のタイトルも獲得した。自分が先頭に立ち、チームを引っ張っての優勝の味は格別で、プロ最高のシーズンを送った。翌98年からは選手会長を務め、チームはリーグ連覇。年俸も1億円を突破と鈴木は野球人生の絶頂にいた。

 だが、2000年には打率.249で30傑の28位、8年ぶりに一桁台の6本塁打と打撃不振に陥る。松坂大輔松井稼頭央という投打の若きニュースターも出現し、01年には一塁アレックス・カブレラと三塁スコット・マクレーンのツイン・バズーカが猛威をふるった。チームの中心から徐々に弾き出されるタイミングで、02年には伊原春樹が監督就任。二転三転する起用法に両者の溝は深まり、出番を失っていく。なんで調子はいいのに使ってくれないのか。オレの居場所はもうないのか……。車を運転しながら、球場へ行きたくないと思う日すらあった。二軍降格を告げられても、ベテランの自分が腐っていたら若い選手に悪影響を及ぼすと、四番打者としてイースタン優勝に貢献。そんな鈴木の背中を見て育ったのが、若手時代の中島宏之栗山巧だった。
 
 そして、02年の日本シリーズで西武が巨人に4連敗した翌日、球団から構想外を告げられるのだ。選手会長を務め、チームのためとFA権を取得しても行使せず、不甲斐ない成績に自ら3000万円の減俸を申し入れたこともあった。なのに上司とぶつかると、あっさり出されてしまうのが組織というものだ。やがて恩師の東尾の仲介もあり、ヤクルトへの金銭トレードが決まる。

ヤクルトで生まれ変わった姿


 33歳、プロ16年目の再出発。もう若くはない。だが、若くはないからこそ、己の姿を客観視することができたのだ。移籍先で過去の自分と同じことをやっていたらダメだと考え方を変え、これまでの開幕に間に合えばいいという調整法も変えてオープン戦から結果を求めた。西武時代はたびたび精神面のムラを指摘されてきたが、自主トレに呼んでくれたプロゴルファーのジャンボ尾崎から、「自分の感性を大事にしろ。自分の感じたものを大事にしろ」とアドバイスされ、打席に立つ際にデータは参考程度にとどめ、エースが来ようが、左ピッチャーが来ようがイチ投手だと割り切って打席に立った。

 03年シーズン、当初の鈴木はベンチスタートも、開幕してすぐレギュラー三塁手の岩村明憲が故障離脱。新背番号9は開幕2戦目から代役スタメン出場、3戦目には移籍後初アーチを含む猛打賞をマークする。そのまま「五番・三塁」に定着すると、4月10日巨人戦では4安打6打点で神宮のお立ち台に。序盤は5割近い得点圏打率を誇り、首位打者争いを牽引する。前年、シーズンを通して試合に出ていなかった鈴木のことを考え、適度に休養を挟むなど何かと気にかけてくれた若松勉監督も、「ケンがいなかったらと思うとゾッとする」とベテランの復活を称えた。

ヤクルトで柔らかいバッティングが復活した


 もともと変化球への対応に自信を持っていた鈴木だったが、直球で押すパ・リーグの投手とは違い、変化球攻めの多いセ・リーグの野球が合った。週べのインタビュー企画で西武時代の同僚・大塚光二から、「戦力外になったとき、悔しさはなかったのか?」と聞かれると、「まあ、ないことはないですけどね」と当時の心境を語っている。

「別に深くは考えなかったですね。まだ自分はこのままで終わりたくなかったし、どこか拾ってくれたら、どこへ行ってもやれる自信はあった。すぐにヤクルトが決まったから、ヤクルトに行って見返そうと。そういう気持ちは今でも持ってるし」(週刊ベースボール2003年10月27日号)

 戦力外の自分はFAで入ったわけではないので誰も期待していない。ダメ元でいこうといい意味で開き直れた。ヤクルト1年目の03年は、打率.317、20本塁打、95打点と復活どころかキャリアハイの成績を残し、97年以来自身二度目のベストナインに選出され、見事にカムバック賞を受賞する。

 所沢で一度死んだ男は、東京で蘇ったのである。その卓越した打撃技術は同僚からも一目置かれ、現役晩年は同じ左打者の青木宣親がスランプに陥ると鈴木に打撃のアドバイスを求め、後輩にどうしたらいいか親身になって助言をしたという。

平成引退試合の名シーン


「捕らない。捕らないっ。捕りません!」

 2007年10月4日、実況アナウンサーがそう絶叫する中、三塁を守る横浜の村田修一はあえてそのファールフライを捕らずに見送った。いまだに平成引退試合の名場面として語り継がれる神宮球場のワンシーンだ。現役引退を表明していた打席にいる鈴木から思わず笑みがこぼれ、相手ベンチの大矢明彦監督まで笑っている。

 8回裏に代打で登場した鈴木は、現役最後の打席で横浜3番手の横山道哉の全球直球勝負に対しファウルで粘りまくる。13球目は三塁フェンス際への小フライ。これをサード村田が捕球を見送り仕切り直すと、鈴木は15球目をセンター前へ通算1446安打目を運ぶ。一塁上でヘルメットを掲げ笑顔でスタンドに向けて挨拶した直後、37歳の背番号9は涙を流しながらベンチへ下がった。

「粘ったというか、ボールが前に飛ばなかったんですよね。あのときは自分もバテてきたので、捕ってくれたらという気持ちも正直なところあったんですが(笑)、あの落球があったから最終打席でヒットを打てたので、村田君には非常に感謝しています」(週刊ベースボール2007年11月26日号)

 西武で15年、ヤクルトで5年。20年間、完全燃焼した野球人生だった。あの屈辱の戦力外通告は、終わりではなく、始まりでもあったのだ。男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。鈴木健は、最後に「悔いはありません。世界一の幸せ者です」と言い残し、グラウンドを去ったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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