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逆転野球人生

なぜ、近鉄元左腕エース小野和義は戦力外から同リーグ“ライバル球団”西武移籍したのか?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

300勝投手も素質にベタ惚れ


近鉄時代の小野


「パ・リーグじゃなきゃ、あかんのですよ」

 そのサウスポーは近鉄バファローズから戦力外通告を受けた直後、再出発の新天地にパ・リーグ球団を希望した。1990年代、まだセ・パの人気格差は大きかったが、そんなことは彼には関係なかった。世間の注目度や目先のカネよりも、自分をクビにした古巣に対して己の野球人生をぶつけて全力で投げる。それが、小野和義というピッチャーの生き方だった。

 快速球と落差の大きいカーブを武器に「関東に小野の左腕あり」と称された創価高時代は、驚異的な奪三振率を誇る“江夏二世”と話題に。一方で寮での寝起きの悪さもナンバーワンで、雑誌『セブンティーン』の取材には、「へへ、寮から学校まで、毎朝ダッシュするのがボクの朝練なんです」なんて笑ってみせる17歳。なお、その特集ページを並んで飾るのは、立教高の長嶋一茂である。昭和40(1965)年生まれの同学年は水野雄仁野中徹博渡辺久信吉井理人池山隆寛らが顔を揃える豊作年だったが、小野も83年ドラフト会議で近鉄バファローズから1位指名を受ける。

 当時、圧倒的な人気を誇っていた巨人にも興味を示さず、「プロ野球をやれるのなら、セ・パの違いなんて関係ないと思っていました」と早々に入団を表明。大学と社会人でプレーしたと仮定して、プロでの6年間で稼げなかったら辞めようと腹をくくっていた。江夏にちなんだ背番号26を与えられ、本人も知人からプレゼントされた江夏のイニシャル入りのグラブを大事にした。大先輩の鈴木啓示は、「ワシを見つけて早速挨拶に来てくれた。声も大きいし、ハキハキしとる。ワシら年寄りにも臆せずに、いい目付きしとる。入団のときに“記録破りが僕の夢”といった小野君のことば、頼もしいやないか」とその素質にベタ惚れ。キャンプインの空港からの移動も、わざわざルーキーたちのいるバスに乗り込み、小野の隣に座りプロの心構えを説く300勝投手の姿があった。

野性味あふれる投げっぷり


近鉄投手陣の中で順調に主戦投手への階段を上り86年には14勝を挙げた[左は石本貴昭]


 即戦力の呼び声も高かったが、紅白戦でメッタ打ちを食らい、ヤケクソ気味に「たかが紅白戦じゃないですか」と記者に愚痴ったのが記事になり、首脳陣からは大目玉。オープン戦で右ヒザにスパイクが入り負った裂傷からバイ菌が侵入して右ヒザ蜂か織炎で入院のプロの洗礼と、18歳の小野は春先に出遅れるも、6月17日の西武戦で初先発完投勝利の快挙を達成する。完封ペースの8回にソロアーチを浴びるも、5安打1失点の147球の熱投だった。ベテランの加藤秀司は「高校出のルーキーが初先発で完投勝利をしたのを、初めて見たよ。スゴイヤツや」と絶賛。岡本伊三美監督からは監督賞の10万円を贈られた。

 140キロ台後半の直球を連発する、野性味あふれる投げっぷりは若かりし頃の鈴木啓示と比較され、その鈴木がアキレス腱を痛め途中降板した7月31日阪急との首位攻防戦で小野はプロ初セーブを記録。自身307勝目をルーキーにアシストしてもらった鈴木は、「小野ヤン、ありがとう」と感謝を口にした。1年目は2勝3敗1セーブ、防御率5.29という成績だったが、自ら希望して、わずか1年で退寮。2年目のオフには、同い年の女性とゴールインする。藤井寺球場の選手食堂でアルバイトしていた彼女に一目惚れした小野が、猛アタックして食事に誘い交際がスタート。20歳同士の結婚と話題になった。そして、翌86年シーズンが飛躍の年となる。

 春のキャンプで近鉄が提携していたブリュワーズの投手コーチから教わったチェンジアップをマスターすると、序盤から順調に勝ち星を積み重ね、両リーグ10勝一番乗り。前半戦最後の阪急戦で166球の完投勝利を挙げ、ハーラートップの12勝で折り返し。藤井寺球場で好投しながら左足スネをアブに刺されて降板したことから、“アブ男”とも呼ばれた左腕は後半に息切れするも、前年の3勝からチームトップタイの14勝をマークしてみせた。85年途中に鈴木は現役引退していたが、その座を継承するのは小野しかいないと誰もが思った。
 
「鈴木さんとはタイプは違いますが、チームの中心となる投手にはなりたいと思っています。もちろん性格も全然違いますが、チームの柱という点で、少しでも鈴木さんに近づこう、近づこうと思って努力しています」(週刊ベースボール86年7月28日号)

痛みを押して日本シリーズ登板


巨人との日本シリーズにも登板したが、オフに左ヒジ手術を受けた


 自他ともに認める近鉄の新エースへ──。まさにその時、86年のドラフト1位で阿波野秀幸が入団してくるのだ。亜細亜大から来た1つ年上の痩身のサウスポーは、1年目から15勝で新人王に輝き、瞬く間に近鉄の大黒柱となる。負けじと小野も86年から4年連続で二ケタ勝利を記録。88年から指揮を執る仰木彬は、優勝が懸かったロッテとのダブルヘッダー“10.19”の第1戦の先発マウンドに小野を送り出している。しかし、この頃から十代から投げまくってきた小野の左ヒジは悲鳴を上げる。89年9月26日の西武戦、激しく優勝を争っていた宿敵との天王山に先発した背番号26は同点の6回表、石毛宏典を打席に迎える。

「バッターは石毛さんでした。ランナーは一塁、だったかな。投げた瞬間、鈍くボキッって音がしたんです。アッ、もうこりゃいかん、投げれんワ。そう思いました。翌朝、ヒジが倍に腫れ上がって、もう、歯も磨けん、顔も洗えんような状態でしたよ」(復活-地獄を覗いた男たち/栗山英樹/ベースボール・マガジン社)

 この年の近鉄はオリックスや西武との熾烈なデッドヒートを制してリーグVを達成するが、小野は監督の胴上げこそ投手コーチの権藤博からの誘いに応じるも、己の不甲斐なさに腹が立ち、チャンピオンフラッグを持っての場内一周には加わらなかった。痛みを押して巨人との日本シリーズ第4戦に先発するも、勝ったら日本一という重要な試合で6回途中4失点KO。チームもこの試合から4連敗を喫してしまう。シリーズ終了後の11月15日、小野は左ヒジの遊離軟骨の除去手術を行ったが、直後のドラフト会議で近鉄は史上最多の8球団競合を引き当て、野茂英雄の獲得に成功する。

93年オフに自由契約


 小野はプロ6年目を終え、近鉄のエースの座からは遠ざかってしまったが、大リーグのノーラン・ライアンがウエート・トレで筋力アップを図り故障から復活したと聞けば、ライアンの本を英和辞典を引きながら熟読。自らもジムに通って筋トレに励み、エアロバイクを黙々と漕いで、立花龍司コンディショニングコーチとともにリハビリに励んだ。90年は3勝に終わるも、仰木監督は真夏の炎天下のファームの試合に出かけ、バックネット裏からじっと小野の投球に見入っていたという。故障前の勢いで押すピッチングではなく、スプリットで縦の変化を意識した新スタイルは翌91年の開幕10連勝という復活劇へと繋がっていく。12勝4敗、防御率2.86の好成績でカムバック賞を受賞すると、翌92年はシーズン初戦の野茂登板予定が雨で流れ、翌日のしきり直しで小野はプロ9年目にして自身初の開幕投手を務めた。しかし、左肩痛を発症してシーズン未勝利に終わると、93年もわずか3試合の登板で8月1日のロッテ戦で上げた672日ぶりの勝ち星のみ。

 この時、実は93年から近鉄の監督に就任した鈴木啓示との関係は冷えきっていた。走り込みと投げ込みで成り上がった昭和の大投手・鈴木からしたら、立花コーチと最新のPNFトレーニング等に没頭する小野のことは理解しがたかった。新人時代は「鈴木さんの投球フォームはムダがなくて理想です。ボクも、あの技術を吸収したいんです」と憧れの先輩だったのに、皮肉なことに10年後に上司と部下になった途端にギクシャクする。どこの会社でもよくある話だ。さらに、フロントの不手際で自由契約は本人に告げられる前に新聞に情報が出てしまい、近鉄に強い愛着があった小野が「バッティングピッチャーでもいいから残れないですか?」と聞いても、球団側の反応はつれないものだった。

「(戦力外のショックは)シーズンの途中から、ひょっとしたらという気持ちはありましたから、さほど……。自分自身1年目から、自分なりの練習パターンでやってきたし、コーチに反抗して自分だけの練習をしていたこともあった。だから、実際の野球生活においては悔いはなかったんです。ただ、気持ちの面で、まだやりたい。何かやり残したことがあると感じた」(週刊ベースボール94年4月11日号)

 近鉄時代の年俸7000万円に近いオファーも報じられ、一時は野村克也監督率いるヤクルト入りが有力視されるも、真っ先に西武の森祇晶監督から電話があり春野の秋季キャンプにテスト生という形で合流する。加えて小野には、大リーグのエンゼルスから入団テストの誘いもあったという。もしかしたら、後輩の野茂より1年早くメジャーのマウンドに立っていた可能性もあった。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。自分をクビにした近鉄を見返すため、小野はセ・リーグにもアメリカにも見向きもせず、己の信念に従ったのだ。その心境を高校の先輩にあたる栗山英樹にこう明かしている。

「栗山さん、パじゃなきゃ、あかんのですよ、近鉄と同じパ・リーグじゃなきゃね。そうでしょ?」(復活-地獄を覗いた男たち/栗山英樹/ベースボール・マガジン社)

あえて強力投手陣を擁する西武へ


西武移籍1年目に貴重な先発左腕として7勝をマークした


 だからこそ、28歳にしてあえて12球団屈指の安定度を誇る西武投手陣に飛び込んだ。94年5月15日、古巣・近鉄戦に先発するも、5回途中3失点で勝ち負けつかず。「なんであんなに勝ちを急ぎ過ぎたんだろう。まあ負けないでよかった」と小野は悔やんだが、ベンチの森監督もこの試合を「危うい状態とわかりながら5回だから勝利投手にさせてやりたくて続投させた」と週べの自身の連載「心に刃をのせて」の中で振り返っている。

 森監督は「一度死んだ人間は強いということや」とその後も小野を先発で起用し、8月17日のダイエー戦ではなんと169球を投げ抜き、1954日ぶりの完封勝利。94年はV5を達成したチームにおいて7勝を挙げ、巨人との日本シリーズ第3戦にも先発。30年ぶりのナイター開催となり、底冷えのする西武球場で8回1失点(自責点0)と意地を見せた。

97年開幕直後に中日へ。最後は中日のユニフォームを着た


 プロ14年目の97年開幕直後には金村義明との交換トレードで中日へ。「ボロボロになるまで投げ抜く」と名古屋の地に向かう傷だらけのサウスポー。現役ラストイヤーの97年は球速も落ち、ウエスタン・リーグのダイエー戦で3回10失点したこともあった。

 通算284試合、82勝78敗4セーブ、防御率4.03。早熟のサウスポーの全盛期は確かに短かった。だが、度重なる故障から復活したあとの小野の投球には、一種の切実さがあったのも事実だ。それは、腕一本で生きるプロの「凄味」として見る者の心に刺さった。故障後の心境の変化を小野自身はこう語っている。

「まあ、格好よく言えば、『きょうという日に悔いを残したくない』というふうに、思うようになりましたね。何て言うか、こう、ホッと出来る日は一年で一日、シーズンが終わった次の日、それぐらいの気持ちでいたいんですよ」
 
文=中溝康隆 写真=BBM
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