どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 “無冠の帝王”“番長”ではなく“キヨマー”

西武入団会見での清原
「打った瞬間いくと思いました。去年の夏の甲子園からずっと半年以上もなかったんで、まあ何回まわっても気持ちいいですね」
1986年4月5日、開幕2戦目のプロ2打席目で西武球場の左中間芝生席へ初安打・初本塁打を放ったルーキーは、試合後のインタビューで白い歯を見せてそう答えてみせた。18歳の
清原和博である。プロ入り直後、月の小遣いは5万円。先輩の
渡辺久信に連れて行ってもらう寮の近くの「リンガーハット」で食べる長崎ちゃんぽんが好物だった。この頃の彼は、“無冠の帝王”でも“番長”でもなく、“キヨマー”と呼ばれていた。

入団会見の翌日、西武球場にて
1985年のドラフト会議で
巨人入りの夢やぶれ悔し涙を流すも、高校生史上最多の6球団競合の末に西武ライオンズが交渉権を獲得する。PL学園で甲子園最多記録の通算13本塁打を放った超高校級スラッガーは、西武入団発表翌日の1985年12月13日、マスコミ撮影用に学生服姿で西武球場の右バッターボックスに入り、ティー打撃を披露すると、軽く振ったスイングで左中間スタンドにホームランを打ち込んでみせた。しかも、足もとは革靴のままである。ひとりの新人選手の球場施設見学にテレビ局7社含む約80人の報道陣が同行し、西武鉄道本社から清水信人取締役がわざわざ駆けつける熱の入れようだった。
キャンプの主役は背番号3
年が明けた1986年1月10日、西武第2球場横にある合宿所に入寮。六畳強の十号室に「部屋は少し狭い感じ。それとPLの寮では相部屋だったので、ちょっと寂しい」と身長188cmの巨体に似合わぬ寂しがりやの一面をのぞかせつつ、「目標は、高卒で新人王をとった
豊田泰光さんの本塁打27本を超える30本と新人王。それと王監督の868本を破ることです」と堂々と口にする。気弱な一面と底知れぬ自信が同居する普通の18歳がそこにいた。常に巨人1位指名の
桑田真澄と比較されたが、清原はドラフト時の涙の理由をこう語っている。
「他のチームが指名したから、どうだというのではなく、プロなら巨人になるだろうと思っていたから、そこに入れない、ああ、それなら自分の野球人生はノンプロになるのか、みじめだなあ、って思ったんです。それで涙が出たんです」(文藝春秋1986年3月号)

キャンプには長嶋が取材に訪れるなど大フィーバー
最強の“KKコンビ”といわれたが、いつも桑田の次に清原の名前がくる。いつか必ず清原が先にくるようにしたい。だから、「桑田巨人」と聞いた時はショックだった。だが、キャンプが始まれば、主役は背番号3だった。
長嶋茂雄や
張本勲ら球界の大御所たちが続々と清原詣でに集結。浪人生活中の長嶋は「スタンス、球のとらえ方、大きなフォロースルーと長距離打者の特性を備えている」とゴールデンルーキーをベタ褒めした。フリー打撃では左翼スタンド後方のフェンスを超える140メートル弾を披露するも、実戦練習の紅白戦では打率.235。オープン戦では打率.220、3打点。本塁打はともに0だった。注目の開幕戦はベンチスタートも、これには
森祇晶監督のなんとか清原にいいスタートを切らせてやろうという親心があった。
「開幕戦は
山内孝徳の先発が予想された。技巧派の山内は
シュートとスライダーが武器で横の揺さぶりがある。清原には不向きな投手だと思った。第2戦は若い
藤本修二だろうと読んだ。清原は技巧派の山内より若い藤本の方が打ちやすい」(週刊ベースボール1995年6月5日号)

プロ2打席目で初ホームランを放った
その読み通り、清原は4月5日のデビュー戦の第2打席で初アーチを放ち、翌6日の南海戦でも2打数2安打の活躍。イースタンで投げるライバルの桑田に大きく差をつけた。公式戦初遠征となる大阪行きの新幹線がグリーン車だと知ると、大ハシャギする少年のようなキヨマーを先輩たちも弟のように可愛がる。4月は開幕してしばらくするとプロの厳しい攻めや慣れないナイター照明に苦しみ、20打席連続ノーヒットのスランプにあえぐも、二軍戦に調整出場してから夜は一軍に駆けつけた。待ちに待った第2号は4月30日の南海戦で、これがナイターでの初安打でもあった。5月に入ると背番号3は勢いを取り戻し、22日の阪急戦では大エース
山田久志からバックスクリーンへ弾丸5号アーチを叩き込み、27日の近鉄戦でプロ初の5番を任され二塁打を放った。実は17日の近鉄戦で自打球を左足親指に当て亀裂骨折をしていたが、「こんなんケガのうちに入らへん」と何食わぬ顔で試合に出続けての快進撃である。
清原のためのオールスター
遊びたい盛りの十代。早朝デートを写真週刊誌に撮られ、遠征先での門限破りで給料1カ月分の罰金に加えシーズン中の外出禁止を言い渡された。先輩の
東尾修らは罰金の減額を提言してくれたりとかばったが、結果的に私生活まで管理された環境で新人の清原は野球漬けの日々を送ることになる。プロの投手に対応しようと一打席ごとの配球を手帳に記録してスコアラーのデータと照合。試合後は合宿所や遠征先のホテルで、別のノートにその日対戦した投手のクセや打ち損じた球種を書き込む。眠れない夜は、もちろん素振りだ。そして、困ったときに清原が頼ったのが、打撃の師と仰ぐ三冠王男だった。
「落合さん(博満。当時
ロッテ)がチョコチョコと言ってくれたのが効きましたね。例えば、低めのボールをすくって上にあげようというんじゃダメだ。むしろ上から引っぱたく感じがいい。そうするとボールが勝手にあがっていくというんです。練習で試してみると、なるほどなんです。試合でもいい結果がでました」(週刊ベースボール1986年11月17日号)
ロッテ戦になると、攻守交代の際に一塁ベース付近の土部分を念入りにスパイクの底でならしてからベンチに戻る。文化放送のライオンズナイター担当アナウンサー中川充四郎氏がその理由を聞くと「落合さんがイレギュラーで怪我しないように」と思っての行動だった。開幕から2カ月足らずで、18歳のスラッガーはリーグ連覇を狙う西武の欠かせない戦力になっていた。6月13日の近鉄戦で右中間へ8号。
王貞治の1年目7本を上回り、その後1カ月に渡り本塁打から遠ざかるも、7月13日の近鉄戦で初の2打席連発となる9号、10号。
香川伸行が保持していたドラフト制後の高卒ルーキー最多本塁打を早くも更新する。前半戦終了時の成績は打率.258、11本塁打。ブロマイドやナンバーフラッグといった15種の清原グッズは全売り上げの5割近くを占め、テレホンカードは最初に4千枚、追加で4千枚作ったが、それぞれ発売直後に売り切れ。もちろん、オールスターファン投票では17万9160票と落合や
ブーマー(阪急)を抑え、パ・リーグ一塁手部門で断トツのトップ当選だ。

オールスターでも大活躍を見せた
初めての夢の球宴で、清原は先輩たちの度肝を抜くことになる。地元・大阪球場で行なわれた第2戦、ホームランダービーに出場した18歳11か月のキヨマーは、なんと10スイング中7本をスタンドに放り込み、全パのベンチに座る落合や山田久志ら大先輩達がその規格外の打球に大盛り上がりする様子も話題になる。試合でも両親が見守る中、
遠藤一彦(大洋)から高卒ルーキーでは史上初の特大アーチを左翼席上段かっ飛ばしてMVPに輝く。1986年のオールスターは清原のためにあった。
四番として日本一に貢献
プロの水に慣れ、恐ろしいスピードで成長し続ける怪物スラッガー。球宴後、清原のバットはさらに加速する。
中西太の12号、張本勲の13号といったビッグネームたちが持つ高卒新人の本塁打記録を次から次へと抜き去り、19歳の誕生日翌日、8月19日の近鉄戦で
榎本喜八に並ぶ16号を放つ。25日の
日本ハム戦で
津野浩からバックスクリーン右へ特大の17号アーチで、高卒ルーキー本塁打の単独2位に浮上。夏休み終盤、チームは2引き分けを挟む10連勝もあり近鉄から首位を奪う。この時期はまだ「五番・一塁」の清原、「四番・三塁」の
秋山幸二という並びが多かった。
8月31日の南海戦で月間8本目の第20号。9月6日の近鉄戦でプロ初の21号満塁弾に続き、バックスクリーンにぶち当てる特大の22号アーチで1試合6打点をマークした。9月14日にはシーズン100安打目を記録、16日の南海戦で豪快に豊田泰光の高卒新人記録に並ぶ27号を左翼スタンド上段へ。27日、西武球場での天王山・近鉄戦で左のエース
小野和義から28、29号を放ち、長嶋茂雄の1年目の本塁打数をも超えようとしていた。
9月は打率.364、9本塁打、23打点の活躍で月間MVPにも輝き、10月5日の南海戦で30号到達。7日のロッテ戦、ついにプロ初の四番に抜擢され、雨の川崎球場で
桑田武に並ぶ新人タイ記録の31号を左翼席へ運ぶ。西武はその2日後、本拠地でロッテ相手に
工藤公康が完封勝利、近鉄に競り勝ち129試合目にV2を達成した。春まで高校生だった背番号3の最終成績は、126試合で打率.304、31本塁打、78打点、OPS.976。この年、パ・リーグ初の観客600万人突破、西武は球団新記録の166万人超え。清原効果は長年不人気に喘ぐリーグ全体の観客数を一気に押し上げたのである。

広島との日本シリーズは史上初の第8戦までなだれ込み、日本一に輝いた
広島との日本シリーズでも、引き分けを挟み3連敗からの4連勝というチームの劇的な日本一に四番打者として貢献。清原はシリーズ打率.355、新人最多記録の11安打で優秀選手賞に選ばれる。のちに森監督は週刊ベースボールの自身の連載「心に刃をのせて」の中で嬉しそうにシリーズ終了後の出来事を振り返っている。
「日本シリーズで広島カープを倒し、日本一に輝いたとき、清原は選手の使者として私の自宅を訪ね、銀座の祝賀会場に案内してくれた。私は彼のやさしい気配りに感激した。清原については毀誉褒貶あるようだが、私が知る限り、実に純粋な男である」(週刊ベースボール1995年6月5日号)
日本が未曾有の好景気へ突き進もうとしていた1986年、ひとりの新人選手がプロ野球界を揺るがす大活躍を見せ、社会現象となった。ユーキャン新語・流行語大賞では“新人類”が金賞に選ばれ、若者の代表として西武の清原、渡辺久信、工藤公康の三人が表彰式に出席している。“無冠の帝王”や“番長”ではない、“キヨマー”がいた時代。あの頃、清原和博はプロ野球史上最高の新人野手だった――。
文=中溝康隆 写真=BBM