どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 超高校級のスラッガーが巨人へ
「敬遠四球が是であるか非であるかは別にして、それは強打者の最大級の栄誉だ。“高校生らしからぬ”抜きん出た実力と才能を、松井はバットを振らずとも再認識させた」(週刊ベースボール1992年9月2日号増刊)
星稜高校のスラッガー
松井秀喜は、2回戦の明徳義塾戦で5打席連続敬遠という伝説を残して、甲子園を去った。球場内が勝負を避けたことに怒る客席からの帰れ
コールとメガホンが投げ入れられる異様な状況の中で、松井はただ打席に立ち続けた。「普通の高校生ではない」(明徳・馬淵史郎監督)と相手から恐れられ、皮肉にも、一度もバットを振らなかったことにより、その才能と実力が日本中に証明された形となったのだ。
そして、高校通算60本塁打の“ゴジラ松井”は、1992年11月21日のドラフト会議で4球団から1位指名を受け、12年ぶりに監督復帰した巨人の
長嶋茂雄監督が当たりクジを引き当てる。チームでは1980年の
原辰徳以来、12年ぶりに競合に勝っての1位指名。ミスター会心のサムアップポーズの写真と「V奪回へ夢いっぱい 当てた長島 松井巨人」の見出しが躍るスポーツ報知号外が街で配られた。なお、石川県金沢市の星稜高校には全国各地から約150名もの報道陣が詰めかけ、NTTから「ドラフト当日、学校に臨時電話を設置してみては」と打診があったという。学校周辺の公衆電話がマスコミにより一斉にふさがると、近隣の電話回線がパンクする恐れもあるからだ。

ドラフトで4球団競合の末、1位で巨人に入団した
当日4限目の授業が終わり、午後12時37分から会見に臨んだ松井は、「自分は
阪神に行きたかったけど、クジですから。阪神ファンでしたから(巨人は)憎かった。でも、あの人(長嶋監督)は特別。嫌いという人はいないでしょう」と淡々と心境を語り、16時30分に長嶋監督直々の指名挨拶電話を受けた。12月6日には、金沢市内のホテルで巨人と仮契約。契約金1億2000万円、年俸720万円。高校生ルーキーとしては初めての1億円突破で、球団史上最高額だった。当時、若貴兄弟擁する大相撲ブームや、サッカーのJリーグ開幕を控え、野球人気の危機が盛んに騒がれていたが、長嶋監督とゴジラ松井の師弟関係は、いわばプロ野球の救世主を託されたのである。
オープン戦でプロの洗礼

宮崎キャンプには松井を目当てに大勢のファンが訪れた
王貞治のシーズン55本塁打超えを期待され、「背番号55」で臨んだ1993年春の宮崎キャンプは、松井のバッティングが連日トップニュースとなる。2月2日、初めてのフリー打撃では57スイングで13本の柵越え。バックスクリーン直撃とスコアボード越えが2本ずつ。150メートル級の右翼場外弾も3本あった。視察に訪れたOBの
川上哲治は「王(貞治)君の1年目以上」と絶賛。
淡口憲治打撃コーチは「松井の時だけ、球を軽くしているわけじゃないんだけどなあ」なんて規格外のパワーに呆れたが、当の本人は「まだ完全ではないです」と冷静だった。
そのすでにチームトップレベルのパワーとは対照的に、慣れ親しんだ内野ではなく、外野手としてスタートを切ることになった守備では、
福本豊臨時コーチからマンツーマン指導を受けた。松井自身も当初は、守備面に不安を持っていたという。
「最初はやっぱり、凄く不安でしたよね。実際に難しかったし、特に正面の打球が伸びるのか失速するのか、の判断がなかなかつきませんでしたから。キャンプの終わりが近づくにつれて、分かってきたっていうか、守るのがだんだん楽しくなってきましたよ」(週刊ベースボール1993年3月15日号)
2月13日には3万5000人ものファンが宮崎に押し寄せたが、さすがの松井も実戦となるとプロの洗礼を受ける。オープン戦初打席で
ヤクルトの
石井一久のカーブの前に見逃し三振を喫するなど、20試合で53打数5安打の打率.094、0本塁打、20三振と惨惨たる成績で開幕二軍スタートへ。それでも4月10日のイースタン・リーグ開幕戦で、ヤクルトのドラ1右腕・
伊藤智仁から高知・春野球場の右翼席後方の楠の木にぶち当てる特大ホームランを叩き込む。「初めっからこんなヤツいらないっていわれて落とされて……。後から(二軍にやったことを)後悔させるように、早く上にあがって頑張りたい」(週刊ベースボール1993年4月26日号)と18歳の松井は雪辱に燃えていた。
一軍2戦目でプロ初本塁打

5月2日のヤクルト戦で高津からプロ初アーチを放った
いつか見返してやる――。のちの国民栄誉賞選手にもそんな時代があったのである。宣言通り、イースタンで打率.375、4本塁打、14打点と格の違いを見せつけた背番号55は、5月1日に一軍初昇格を果たす。さっそく優勝を争うライバルの野村ヤクルトとの一戦に、「七番・左翼」でスタメン出場すると、第2打席でセンターオーバーのタイムリー二塁打を放ちプロ初安打・初打点を記録。いきなり東京ドームのお立ち台に上がり、「ファームに落とされた悔しさを、毎日忘れずにやって来ましたから」と喜びを口にした。翌2日には、3点差を追う9回二死で迎えた一軍7打席目で、ヤクルトの
高津臣吾から弾丸ライナーのプロ第1号ホームランを右翼席に突き刺した。翌3日、松井に代打・
西岡良洋が送られると、ドームの客席から長嶋采配に対してブーイングが巻き起こり、中継していた日本テレビには抗議の電話が殺到する。
結局、1993年の大型連休の話題は、ひとりのルーキーが独占することになる。巨人戦テレビ視聴率はヤクルト戦の5月1日28.9%、初アーチの2日33.4%、3日
広島戦は34.5%と凄まじい数字を叩き出す。当時の長嶋巨人の試合はまさに“国民的行事”だったのである。週刊ベースボール1993年5月24日号では、この様子を「球界の救世主の予感」と巻頭グラビアでリポート。5月2日の読売新聞には、119年の歴史で初めて、プロ野球のひとりのルーキーの初ヒットが一面に掲載されたのだという。なお、週べでは「スーパー・ルーキーの挑戦 松井秀喜(巨人)一軍奮闘記」という異例の新連載が開始された。
苦闘の日々を乗り越えて
しかし、初アーチ以降はバットから快音が消え、昼は二軍戦で打席に立ち、夜は一軍合流と、プロの投手の攻めに対応すべく苦闘の日々が続く。チームは
吉村禎章が奮闘していたものの、新外国人選手の
ジェシー・バーフィールドの不振、35歳を迎える原辰徳の衰え、
大久保博元の故障離脱と得点力不足に悩む中、松井の調子も上がらない。ベテランぞろいの一軍野手陣には同年代の選手が不在でなかなか馴染めず、初アーチ以降、ヒットすら出なかった。6月9日には地元金沢の石川県立野球場での凱旋試合も、両親含む100人以上の応援団が見守る中で出場機会がなく、ベンチに座り続ける屈辱。6月12日に19歳の誕生日を迎え、15日の広島戦で22打席ぶりのヒットを放ち、「55」ナンバー入りの黒いリストバンドをつけ始めたことを聞かれると、「手首の保護? そんなもんじゃないですよ。単なるかっこつけ、まあいいじゃないですか、すこしくらい
は」と若者らしい一面ものぞかせた。
だが、6月20日の阪神戦で打率.091まで下がると浮上の兆しも見えず、7月8日の横浜戦が終わったあと、
須藤豊ヘッドコーチに呼び出され、二軍再調整を通告される。球団幹部からは一軍での英才教育を求める声もあったが、長嶋監督はそれを一蹴。一方で指揮官は、「まだ今ちょっとプロのスピードについていってないようですが、調子と自信さえつけば一刻も早く一軍に上げたい。ある時期が来れば、もうこれはチームの方針として、やっていきますよ。ハイ」と8月の一軍再昇格を示唆した。二軍降格後の松井は、
末次利光二軍監督から「これは時間がかかりそうだ」と告げられるも、フレッシュ・オールスターでタイムリー二塁打を放ち優秀選手賞に輝くと、7月末からの北海道遠征にも同行して、3カ月ぶりの猛打賞も記録。「サッポロビール園」で開かれたジンギスカン・パーティーでナインと肉を頬張った。
そして、あの甲子園の5打席連続敬遠から1年後、8月16日に一軍再合流を果たす。松井本人は「本当は上がりたくなかったんですよ。今年一年は下でじっくりやるつもりだったんです」とのちに明かしたが、首位ヤクルトを4.5ゲーム差で追いかける中、チームの起爆剤を託され、8月22日の横浜戦に「七番・左翼」でスタメン出場。
実質上の「四番1000日計画」がスタート

10月11日の広島戦で第10号。最終的には11本塁打を放った
しかし、一軍復帰後6試合は23打数2安打で通算打率.089。8月末になると、ペナントはヤクルトと
中日の争いとなるが、3位の巨人も完全に優勝が消えたわけではなかった。それでも長嶋監督は、打率0割台の19歳のルーキーを先発で起用し続けるのだ。FA補強で何でも欲しがると揶揄された第二次長嶋政権だが、ルーキー松井にかんして言えば断固たる覚悟で育成していることが分かる。
実質上の「四番1000日計画」が始まり、背番号55は8月31日の横浜戦で同年の最多勝サウスポー
野村弘樹から2号、3号と圧巻の2打席連続本塁打。高卒ルーキーの1試合2本塁打は、1986年の
清原和博(
西武)以来だった。さらに9月2日の同カードでは
斎藤隆から先制の4号2ラン含む四打数四安打の固め打ち。4日のヤクルト戦でも神宮球場の右翼席へライナーで叩き込む5号アーチと、夏の終わりに松井は本塁打を量産し始める。9月12日の阪神戦からは三番に昇格。10月2日の広島戦で、王貞治の7本を超える球団高卒新人最多の第8号。勢いはとどまることを知らず、10月11日の広島戦で広島市民球場の右中間スタンドへ第10号アーチを運び、セ・リーグ高卒新人初の二ケタ本塁打に到達した。最終成績は57試合で184打数41安打、打率.223、11本塁打、27打点、OPS.747。なお、再昇格後は38試合で10本塁打を放ってみせた。
なぜ、指揮官は勝負どころの夏場、打率0割台の高卒ルーキー松井秀喜を頑なにスタメンで使い続けたのか? 当時の週刊ベースボールに長嶋監督の貴重なコメントが残っている。
「巨人の四番を作るんじゃない。球界の四番を作るんです。そういう英才教育をやっています。タイトルは新人王だけじゃない。もっと無限に可能性を秘めた選手ですからね」(週刊ベースボール1993年9月27日号)
文=中溝康隆 写真=BBM