どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 第一志望に落ちて早実へ
ひとつの受験の失敗が、プロ野球の歴史を変えた。
将来は電気技師を目指していた15歳の少年は、理工系大学への進学率が高い第一志望の都立墨田川高校の入学試験に落ちると、誘われていた早稲田実業に進み、野球部に入部する。なお、彼が受験に失敗した学校には硬式野球部がなかった。仮に、第一志望にすんなり合格していたら、のちの“世界のホームラン王”は誕生していなかったのである。

早実では選抜優勝を飾った
早実を勧めたのは、中学2年生の
王貞治が隅田公園の今戸グラウンドで野球の試合をしていたら、偶然通りかがり「君は左利きだろう。なぜ右で打つの? 左で打ってごらんよ」とアドバイスをしてきた見知らぬ男だ。毎日オリオンズの
荒川博である。身長177cmの王がまだ中学生と聞くと荒川は驚き、母校に報告した。そうして運命に導かれるように早実の野球部に入部した王は、1年生からエースとして活躍する。2年春には選抜甲子園で優勝投手となり、父が営む墨田区の中華料理店「五十番」には、
阪神のスカウトが毎日のように訪れたという。あまりの熱心さに父の気持ちは阪神入りに傾くが、東京育ちでジャイアンツのユニフォームに憧れていた王は、兄の後押しもあり巨人入団を決断した。

58年10月、正式に巨人と入団契約を交わした王
1958年の雑誌『娯楽よみうり』には、8月31日の親族会議で巨人入りが決定すると、翌9月1日には東京駅のプラットホームで巨人の
川上哲治と
長嶋茂雄と握手を交わす写真が掲載されている。ゴールデン・ルーキー王には、破格の契約金1800万円が提示され、背番号は「1」に決まった。各雑誌では話題の新人と
別所毅彦や
中島治康といった大物OB、さらには5つ年上の長嶋茂雄との対談企画が組まれているが、18歳の王は大先輩たち相手にまったく物怖じせずに会話を交わしている。小さいころから父の店で働く従業員に囲まれて育ち、年上の大人の扱いにも慣れていた。巨人の
水原茂監督とは親子ほど年齢が離れていたが、1年目から試合中のベンチでは堂々と隣に座わり、先輩たちを驚かせることになる。
強心臓のルーキー
さっそく1958年10月7日から11月25日まで、高校3年生の王は多摩川球場で巨人の秋季練習に参加。
千葉茂二軍監督が見守る中、二軍の若手選手たちと汗を流し、一軍が戦う西鉄との日本シリーズは、特別に後楽園球場の選手席で観戦した。チームは背番号1を長嶋との二枚看板に育て、58年限りで現役引退する川上の後継者を想定したが、この時期の王は「できるなら投手を続けてやりたいんです。外野をやるといっても、いままで本格的な練習はやってないので」(若人1959年3月号)と意思表示していた。しかし、1959年の宮崎春季キャンプでは投打両方の練習を課せられながら、2月20日に水原監督に呼ばれ、「明日から投球練習はしなくていい」と告げられる。プロ1年目での大きな挫折だ。このときの心境をのちに王は自著でこう振り返っている。
「僕は投手をクビになった。ブルペンで投げていると、僕の球は先輩の投手たちと比べて遅く感じられたので、ある程度は予想していました。早実に入った僕のバッティングは、三年まで順調に伸びた。でも、ピッチングについては三年の春、甲子園に出たあたりから衰えていたんです」(野球にときめいて——王貞治、半生を語る/中央公論新社)
打撃の方が自信はあったが、18歳の元甲子園優勝投手にとって、ピッチャー失格の通告には寂しさも感じた。キャンプでは前年に本塁打王と打点王を獲得した2年目の長嶋と同部屋だったが、すぐ他の新人と同じ大部屋へ移される。王のいびきがうるさくて、長嶋が眠れなかったからだという。それでも、学校の試験で1日遅れてチームに合流したにもかかわらず、宮崎駅での熱烈な歓迎や背番号3との同部屋という特別扱いは、他の若手選手たちから批判の声もあがった。だが、当の本人は臆することなく初めてのキャンプを過ごす。王と同期の1940年生まれの新人たちは、板東英二(中日)や
張本勲(東映)ら個性派が多かった。同室の長嶋は、引退後に新人時代の王の印象を愉快そうに語っている。
「ワンちゃんと一週間、同じ部屋に寝起きしたことがある。イビキがすごいのには、ちょっぴり参ったが、それよりもたいへんな朝寝坊ぶりには、驚くよりもほほえましくなってしまった。とにかく、いくら『おい、ワンちゃん!』とゆさぶっても、『すいません。あと五分でいいから寝かしてください』と、また寝てしまうのだ。練習開始が刻々とせまっていても、この調子。ルーキーらしく、非常に礼儀正しくて、真っ先に重いボールバッグなども持つのだが、とにかく大物だった」(燃えた、打った、走った!/長嶋茂雄/中央公論新社)

オープン戦でのバッティング
そんな強心臓ルーキーは、オープン戦で長嶋の4本を上回る5本塁打と結果を残し、一塁のレギュラーを手中に収める。これによりベテラン外野手・
与那嶺要の一塁コンバート案は見送られた。なお、王がファンにできるかぎりサインをするようになったのは、少年時代に後楽園球場でこの与那嶺からサインをもらったときの嬉しさが忘れられないからだという。オープン戦での背番号1の活躍を開幕前のベースボールマガジンのグラビアでは、「新人とは思えぬくらい、その球足は速い。内角に弱味はあるが、好打者の素質は十分。ボロクソにいわれながらも、守備のミスを一向気にしない度胸は、見あげたものだ」と紹介している。
人気先行のアイドル

長嶋[左]との一枚
そんな強心臓ルーキーの王は、開幕の国鉄戦に「七番・一塁」でスタメン出場。しかし、全盛期の
金田正一の前に無安打2三振に抑えられる。早実時代の王は、同じサウスポーの金田の投球を参考にするため、後楽園球場に通ってよく見ていたという。すると、その後も快音が聞かれず、デビューから26打席ノーヒットというスランプに陥ってしまうのだ。「オー、オー、三振王!」と客席から野次られる中、迎えた4月26日の国鉄戦。3打席目で
村田元一のカーブをとらえた打球が右翼席へ。この決勝2ランとなるプロ初アーチが27打席目の初安打でもあった。「まるで雲の上を走っているようでした」と初々しいコメントを残す王だが、続く5月は本塁打なし。雑誌「小学六年生」で漫画「背番号1王貞治選手」が掲載されるも、結果がついてこない。今となっては信じられないが、1年目の王は人気先行のアイドル選手だった。
幸運だったのは、1959年シーズンの巨人は4月を14勝2敗とリーグ五連覇に向けて好スタートを切り、四番長嶋は三冠王を狙える勢いで打ちまくっていた。好調のチームにおいて、水原監督も結果の出ない王を将来への投資として使い続ける余裕があったわけだ。6月になると3本塁打と復調し、6月25日の史上初の天覧試合で放った第4号は、長嶋との記念すべき初アベックアーチとなった。その後、ON砲は106回ものアベックアーチを記録することになる。
チームが独走態勢を固める中、王は7月5日の国鉄戦で第5号、23日の
広島戦で第6号を放ち前半戦を折り返す。そして、後半戦初アーチは8月30日の国鉄戦、金田からの初安打となる一発だった。7本塁打は球団の高卒新人記録を更新。巨人は圧倒的な強さで2位阪神に13ゲーム差をつけてV5を達成するも、日本シリーズではエース
杉浦忠擁する南海に屈辱の4連敗で一蹴された。
1年目は打率1割台

1年目はまだ一本足打法ではなかった
王の1年目の最終成績は94試合、打率.161、7本塁打、25打点、OPS.579。222打席で72三振を喫した。それでも王に危機感はなかった。チーム内に一塁を争うライバルは見当たらず、来年も自分のレギュラーは間違いないだろうと遊び歩き朝帰りを繰り返す日々。寮長に見つかったときには、ポケットに入れた歯ブラシを取り出して口にくわえて寝起きを装った。そんな1959年の11月の初旬、寝ぼけ眼でスポーツ新聞を開いたら、早大のスラッガー
木次文夫の巨人入りが大々的に報じられていた。木次は一塁手である。王はこの時の心境を引退直後に出版した自著の中で振り返っている。
「私は新聞を放り出して立ち上がってしまった。もし木次さんにファーストを取られるようなことにでもなったら、私はベンチの控え選手になってしまう。そんなことになったら大変だ。巨人軍では私の方が一年先輩だとはいえ、向こうには大学四年のキャリアがある。これは正直いって脅威だった。いい気になって酒など飲んでいられないぞ! と私は思った」(回想/ケイブンシャ文庫)
そして、王は直後の秋のオープン戦から目の色を変えて野球に取り組むのである。なお、代名詞の一本足打法となるのは、プロ4年目の1962年シーズン途中からだ。以降、「三振王!」と野次られていた新人は、通算868本塁打の“世界のホームラン王”への道を駆け抜けていくことになる。
文=中溝康隆 写真=BBM