週刊ベースボールONLINE

プロ1年目物語

【プロ1年目物語】「すばらしい打者になる」と張本勲も絶賛 落合博満と首位打者争いを繰り広げた石毛宏典

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

希望通りに西武が1位指名


西武1年目の石毛


「試合中に誰かがミスして失点しても、ベンチに帰る前に石毛さんが『何やっているんだ!』と言うんです。そうなると、監督やコーチはそれ以上言えなくなります。石毛さんがそういう役割だったので、チームはいい雰囲気を保てていましたね」(ベースボールマガジン2018年7月号)

 西武黄金時代の正捕手・伊東勤は、ライオンズ所沢移転40周年のインタビューで、当時のチームをそう振り返っている。練習でも先頭に立って汗と泥にまみれたのは、石毛だった。リーダーがそこまでやれば、若手も手を抜くことは許されない。「プロ野球史上最強チーム」とも称される、あの頃の西武の中心にいたのは石毛宏典だった。

 石毛は市立銚子高3年時にロッテから6位指名を受けるも、これを拒否して駒大の経済学部へ進学。東都大学リーグのベストナインを6度受賞する強肩強打の大学球界No.1遊撃手として鳴らした。日米大学野球では日本代表に選出され、三遊間の深い位置からの矢のような送球には、アメリカの観客も驚き大きな拍手を送ったという。プロのスカウトからの評価も高く、「守備はもちろん打撃もパワーがある。(1978年のドラフトでは)トップか2位で指名されるだろう」(巨人内堀保スカウト)と目されていたが、卒業後は野球部が創設されたばかりのプリンスホテルへ。石毛だけでなく、中尾孝義(専修大)や堀場秀孝(慶大)らドラフト1位候補の大学生たちが、クラウンライターライオンズを買収した西武のグループ企業でもあるプリンスホテルに集結する。アマ球界の有望選手たちの支度金は3000万円以上とも報道され、野球部一期生は将来の幹部候補生で引退後の就職保証の好条件は、プロ野球界にとって脅威でもあった。

西武にドラフト1位で指名され、飛び上がって喜んだ


 そして世界アマチュア野球選手権大会の日本代表選出や、創部2年目で都市対抗野球にも出場した社会人生活を経て、1980年秋のドラフト会議を迎えるのだ。石毛本人は、意中の西武以外からの指名ならば会社に残りたいと思っていたという。野球だけでなく、プリンスホテルではベッドメーキングや英会話レッスンなどの社員研修もあり、好奇心おう盛な石毛はホテルマンの仕事にも興味を持っていたのだ。結果的に、1巡目で西武と阪急が競合するも、交渉権を獲得したのは本人の希望通り西武だった。

「ぼくはホントはアマチュア野球の指導者になろうと思っていたんですよ。高校、大学時代の監督さんが好きだったんです。でも、両親や家族がプロ入りしろという意見だったんですね。悩みましたね、あの頃は。親族会議を開いたり。いろいろしましてね」(週刊サンケイ1981年7月2日号)

 なお、この年のドラフトの目玉選手は原辰徳(東海大)で、西武グループは原サイドにも猛アタックをかけ、一時は1位指名が確実視されていたが、最後は石毛を選んだ。週刊誌では「貴公子の原、庶民派の石毛」や「原と石毛の長島二世になる条件」といった論調の記事も目立ち、以降このふたりはセ・パの新たな顔として、常に比較されていくことになる。

前期終了時、リーグトップの打率.356


開幕から新人らしからぬバッティングを見せた


 そんな喧噪の中、若獅子・石毛は鮮烈なプロデビューを飾る。1981年4月4日、ロッテとの開幕戦に「一番・遊撃」で先発出場すると、相手エースの村田兆治から、いきなりセンター前へプロ初安打。すかさず二盗を決め、二打席目もヒットで出塁すると、またも二盗。迎えた三打席目、なんと村田のスライダーを川崎球場の右中間スタンドへ運ぶのだ。新人の開幕戦本塁打は史上9人目、開幕戦猛打賞は23年ぶり5人目の快挙だった。なお、この試合でロッテの七番打者が1号アーチを含む3安打の活躍で勝利打点を記録している。彼こそ、当時年俸540万円の落合博満である。

 翌5日、石毛は9回の5打席目で右翼席へ第2号。新人の開幕から2戦連発は1955年の枝村勉(大映)以来、史上2人目の記録となる。第3戦の6日にもマルチ安打と絶好のスタートを切るも、この試合で左手甲に死球を受けてしまう。左手打撲の影響でしばらくバットを握れず、代走や守備固めでの途中出場が続き、スタメン復帰は4月28日の日本ハム戦のことだった。

巨人・原[左]とオールスターでのツーショット


 一時、打率3割台を割るも盛り返し、5月26日には規定打席に到達。リーグ5位の打率.315、その時点で原を3本上回る9本塁打と堂々たる数字を残す。そこから石毛の勢いはさらに増し、6月16日には打率.365まで上昇させ、打率トップの島田誠(日本ハム)に6厘差まで接近する。前年、通算3000安打を達成した張本勲(ロッテ)は、石毛のバッティングを目の当たりにして、敵ながらこう絶賛してみせた。

「あの石毛という新人、すばらしい打者になるだろう。外角打ちは天性のものがある。これから、恐らくどのチームも徹底した内角攻めでくるだろうが、それを乗り越えたとき、あの男はプロ野球を代表する一流選手になる」(週刊ベースボール1981年7月6日号)

 新興球団の西武は、他球団から獲得した田淵幸一山崎裕之らベテラン野手が多く、遊撃のレギュラーも固定できないでいたが、背番号7のルーキーは瞬く間に所沢移転3年目のチームの顔となる。石毛は前期終了時、打率.356でリーグトップ。当時のパ・リーグは前後期制だったが、前期2位の原動力となった。

新人王に加え、ベストナイン&GG賞獲


ロッテ・落合とは最後まで熾烈な首位打者争いを繰り広げた


 にわかに“プロ野球史上初の新人首位打者”の可能性も騒がれ出すが、左足肉離れの影響もあり、7月22日に自身初の四番に座った落合に打率首位を奪われる。オールスターで全パの四番に抜擢された若かりし日のオレ流は、8月12日時点で3割5分をマークしてベストテンを独走するかに思われたが、8月後半からスランプに陥り急降下。9月3日には故障欠場中の島田誠(日本ハム)がトップに立つも、すぐさま落合が意地を見せて1位を奪い返し、今度は9日の近鉄戦で石毛が決勝18号アーチを含む3安打の固め打ちで50日振りに首位打者に。激しいデッドヒートが繰り広げられた。

 ペナント終盤の9月22日、石毛は25歳の誕生日を迎えるが、1位落合との差はわずか2厘差。だが、その後の8試合でルーキーは32打数4安打と失速して、首位打者争いは落合が競り勝った。それでも、石毛は「自分の欠点がはっきりわかった」と前を向くのだ。

「技術的なものより、やはり体力的なガタが大きかったと思いますね。あとひと息が大事なことはわかってて、やはり息切れした。来年は全試合出場で、できればバットマンレースに再挑戦したいと思います」(週刊ベースボール1981年11月2日号)

 プロ1年目の石毛は121試合に出場すると、打率.311で長嶋茂雄以来となる新人史上7人目の規定3割を達成。21本塁打、55打点、25盗塁と走攻守で堂々たる成績を残し、新人王に加えて遊撃のベストナインとゴールデングラブ賞にも選出された。

 そして、この数字以上の貢献度が、社会人時代は「一流のホテルマンになれる」と言われた石毛の明るく親しみやすいキャラクターと抜群の人気である。1981年8月1日、セ・パの試合が関東地区で同日にテレビ中継されているが、午後4時からの西武対南海戦の視聴率は3.8%。夜の阪神対巨人戦は20.9%だった。セ・パの人気格差が大きい時代に、なんと新人の石毛はオンワード樫山のモデルに抜擢されているのだ。新聞全面広告では、「180cm。75kg。石毛の肉体は標準化できない。リレイトスーツ。」というキャッチコピーに、西武のユニフォームとスーツ姿のふたりの石毛が並んでいる。

 1981年、ゴールデンルーキー石毛宏典が新興勢力・西武ライオンズの顔となり、のちに三度の三冠王に輝く、27歳の落合博満が初めての打撃タイトルを獲得した。確かに球界の勢力図が徐々に変わろうとしていたのだ。今思えば、それは80年代の始まりであり、まさにパ・リーグ新時代の幕開けでもあった。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング