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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/江藤智】劇的ミレニアムVの立役者 ミスターが背番号を譲った“微笑みのバズーカ”

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

現在ならメジャー争奪戦のスラッガー


2000年、広島から巨人に入団した江藤


「広島時代と同様、江藤くんも33番をつけたら、やりがいがあるでしょう。その時、私は3番をつけようと思っていますよ」(週刊ベースボール1999年12月27日号)

 かつて、長嶋茂雄監督から、そう口説かれたFA選手がいた。1999年オフの江藤智である。広島カープの四番打者として二度の本塁打王に輝いた大型三塁手は、FA宣言時点で29歳の若さながら、NPB通算248本塁打を記録。これは昨オフに、巨人からブルージェイズへ移籍した岡本和真の29歳でNPB通算248塁打とまったく同じ数字である。現代ならば、江藤はメジャー球団で争奪戦になっていたであろうレベルのスラッガーだった。

 1999年5月24日にFA権を取得して去就が注目される中、広島の四番江藤は夏休みの横浜戦で1試合3ホーマー10打点を記録するなど、8月は打率.409、11本塁打、31打点と月間MVPを獲得。1996年8月29日の巨人戦で仁志敏久の打球を顔面に受け、右目眼窩底を骨折して以降はその後遺症を指摘されることもあったが、1999年シーズンは打率.291、27本塁打、79打点、OPS.953という成績で終えている。

 ドラフト5位入団から、どんな猛練習でも壊れない体の強さを武器にリーグを打表する打者へと成長していった。東京出身の江藤はFA権について、「気持ちは(残留か宣言か)半分半分。どっちに傾いてもいない。本当に迷っているので、(宣言期間の)ぎりぎりまで考えることになると思います」とコメントしていたが、松田元オーナー代行は「ウチではそんなこと(宣言残留)はない。(野村謙二郎ら)他のFA選手と区別するのもおかしな話だし、江藤だけを特別扱いすることもしない」とつれないものだった。そして、日本シリーズ終了後の11月9日、江藤は広島市内のホテルで行われた会見で、FA権を行使して他球団へ移籍することを表明するのだ。

「チーム(広島)に愛着があるし、育ててもらったという気持ちが強いので複雑な心境ですが、このままでは自分自身マンネリがちになると思い決断しました。長いこと広島でやってきて甘えも出てきたここ2、3年は成績がパッとしないし、ぬるま湯から抜けないと行かんと……。広島を出たら苦しいと思うけど、チャレンジしようと思います」(週刊ベースボール1999年11月29日号)

背番号3が復活するスペシャルプラン


入団会見で長嶋監督[左]と握手


 貴重な和製大砲が移籍市場に出たことにより、交渉解禁日には横浜、阪神、巨人から江藤のもとに電話連絡があり、やや遅れてドラフト会議当日に中日も参戦を表明するなどセ・リーグ各球団で激しい争奪戦が繰り広げられる。11月15日には阪神の野村克也監督から「100回でも、1000回でも会って話したい」と交渉の席で熱烈なラブコールを受け、翌16日には主力選手たちの「江藤を取ってほしい」と強い要望があった横浜から、4年総額10億円の大型契約を提示された。21日には、名古屋市内のホテルで中日の星野仙一監督から、「1番必要としているのも中日だ。とにかく来い」と現役引退後の指導者への道も含めて口説かれた。しかし、そのすべては巨人との交渉の席上で飛び出した、長嶋監督の「うちを選択してくださるなら、どうぞ(長嶋の背番号33を)お使いください。わたしは3番をつけますよ。しまいこんであった3番を」という言葉の前に、かき消されてしまった。

 江藤に提示された4年16億円という破格の条件より、あのミスタープロ野球の背番号3が復活するスペシャルプランに世の中の注目が集まり、当初は在京球団希望で横浜有利と見られていた雰囲気が一変する。穏やかな性格で知られ、“微笑みのバズーカ″と呼ばれた江藤が、マスコミが殺到する巨人の環境を不安視していると聞けば、長嶋監督は「思い切ってFA宣言したんだから、荒い波を被ってもいいだろう。それが男の勝負だ」と熱いメッセージを送り、交渉後も江藤の携帯電話を鳴らし続けた。

 そして、12月6日には東京・内幸町の帝国ホテルで、巨人のユニフォーム姿で長嶋監督と両手でがっちり握手を交わす江藤の姿があった。午後8時から急遽行われた入団会見には、「今週中とは思っていたけど、今日とはなあ。ネクタイもしないで」とノーネクタイで駆けつけた長嶋監督の横で、江藤は決断理由をこう語った。

「悩み、苦しみましたが、1つの球団に絞れて、ホッとしています。(巨人との)最初の交渉の席で『荒波に向かって行きなさい』と言われたんです。どうせやるなら、大きいところへブチ当たっていこうと思いました。自分の野球人生を託そうと思って、決めました」(週刊ベースボール1999年12月27日号)

 プロ12年目の挑戦。注目の背番号についても、「長嶋さんの背番号3をみんな見たい気持ちがあるでしょう。33番に関しても前向きに考えます」と受け入れる覚悟を示した。しかし、当時の日本社会はまだ終身雇用の価値観が強く、FA移籍には裏切り者のようなマイナスイメージも今以上に強かった。広島の松田オーナー代行の江藤移籍に対するコメントは、「あまりダメージを大きく考えてない。ここ3年の成績を見ても四番の魅力がないし、チャンスに弱いという致命的な部分がある。四番としての能力の限界に来ていた」と辛辣なものだった。

大一番で頼りになるバット


キャンプで背番号3を披露した長嶋監督[右]とツーショット


 2000年当時の長嶋巨人は、ペナントレースの全試合が地上波テレビのゴールデンタイムで中継される国民的な人気球団だった。江藤もその新天地の洗礼を受け、自主トレ初日に「レギュラーをとってカープを優勝……あっ、いえ、ジャイアンツを優勝させるよう頑張ります」と言い間違えたことが、さっそくスポーツニュースで繰り返し放送されてしまう。

 だが、キャンプインするとメディアの注目は、江藤ら選手ではなく「いつ栄光の背番号3が見られるのか」に集中した。2000年2月12日土曜日、22台のテレビカメラと約100人の報道陣が取り囲む宮崎総合運動公園のサブグラウンドで、江藤へのノックを打つ際、ついに長嶋監督がウインドブレーカーを脱ぎ、26年ぶりの「背番号3」の姿を公開するのだ。41分間、223球のノックの最中には江藤に向かって、ファンから「この幸せ者!」と声援が飛んだ。その瞬間をチームメイトの仁志は、のちにこう振り返っている。

「ひむかスタジアムのA球場で練習している最中でした。江藤さんの特守が行われたのは隣のB球場。そこでキャンプ中には聞いたこともない大歓声が上がったので、『今、脱いだのか!』とすぐに分かりました」(ベースボールマガジン2025年8月号 1993-2001 第2次長嶋巨人、ドラマチック伝説)

 オープン戦では古巣・広島から厳しい内角攻めを受けたが、その広島との開幕戦では、東京ドームで「三番江藤、四番松井秀喜、五番高橋由伸」の重量クリーンアップのお披露目となり、江藤はマルチ安打を記録。3戦目には玉木重雄から移籍後初アーチを放つなど上々のスタートを切るが、開幕カードは負け越した。4月21日には広島市民球場での試合後に、帰りのバスへ向かう江藤に向かって中身の入った缶ビールが投げつけられる事件も起きた。幸いにも本人には直撃しなかったが、当時の大物選手を片っ端から獲得していく長嶋巨人のやり方に反感を抱く野球ファンは多かった。

 江藤に加えて、工藤公康(ダイエー)やダリル・メイ(阪神)らを補強したチームは、優勝争いの大本命と見られていたが、4月終了時に12勝12敗と勝率5割ラインがやっと。観戦に訪れた渡邉恒雄オーナーは「俺の怒りのピークは突き抜けている。ゴールデンウィークは絶対に勝ち越さなければダメだ。それができないならば、巨人軍は解散した方がいい」とまくしたてた。それでも次第に“ミレニアム打線”が機能し出して、6月14日に両リーグ最速で20号アーチに到達した松井に刺激されるように、江藤も6月の月間打率.341、8本塁打、28打点と打ちまくり、気がつけば“EM砲“を軸にチームは首位を快走。背番号33は74試合目に早くも8年連続の20号本塁打に到達するが、直後に左側肋軟骨損傷でファン投票選出されたオールスター戦は出場辞退することになった。復帰後の8月13日の広島戦では左ヒジに死球を受け、痛むヒジをかばいながら打席に立ち続けたため夏場はスランプに陥ってしまう。

優勝を決めた試合では9回裏に同点に追いつく満塁本塁打を放った


 それでも、大一番で頼りになるのは江藤のバットだった。V目前となった2000年9月24日の中日戦、4点ビハインドで迎えた9回裏、一死満塁の場面で江藤はギャラードから起死回生の一発を東京ドームのレフトスタンドに運ぶ。32号同点満塁ホームランである。珍しく感情露わにガッツポーズを見せた江藤は、ベンチ前で満面の笑みの長嶋監督とハイタッチを交わす。古巣のオーナーから、「勝負弱い」と指摘されていた男の意地の一撃でもあった。大観衆の興奮冷めやらぬ中、次打者の二岡智宏がライトスタンドへサヨナラアーチを叩き込む。劇的な優勝を決めた長嶋巨人は、日本シリーズで王貞治率いるダイエーホークスとの“ON決戦“へ。テレビ視聴率が関東地区で36.4%を記録した国民的行事において、江藤は2本塁打を放ち、長嶋巨人の日本一に貢献する。

「巨人時代はいい思い出だけ」


 移籍1年目の打撃成績は、127試合で打率.256、32本塁打、91打点、OPS.847。三塁手のベストナインに選出され、勝利打点14はリーグ最多でもあった。翌2001年も30本塁打を放つ江藤だったが、これがキャリア最後の30本台クリアとなった。02年は18本塁打、03年は17本塁打と精彩を欠き、やがてポジションの被る小久保裕紀の加入もあり、レギュラーを奪われ代打要員になっていく。そして、本塁打なしに終わった巨人在籍6年目の2005年オフ、FA移籍してきた豊田清の人的補償として西武へ移籍することになるのだ。当初は両球団間で金銭補償のみという話だったが、プロテクトリストを見た西武の現場サイドから、どうしても江藤が欲しいと要望があったという。それを本人に告げた時の様子を当時の巨人球団代表はこう回想している。

「俯いたまま、しばらく話を聞いていた江藤は、『もうどうにもならないんでしょ。わかりました』と不満を押し殺して言った。言いたいことは山のようにあるはずなのに、もう西武という新たな職場で働く方に意欲を向けようとしている。そして、事務所まで歩いて帰ろうとする私に、『これから球団の方々に最後の挨拶をさせて下さい。僕、車に乗ってきましたから、それで事務所まで一緒に行きませんか』と言い出した。江藤の無類の人の良さはそんなときに現れる」(こんな言葉で叱られたい/清武英利/文春新書)

 江藤は愚痴や不満をこぼすわけでもなく、笑顔で職員たちに挨拶をしてまわり、移籍会見では「巨人時代はいい思い出だけでした」と言い残し、チームを去っていった。元本塁打王が静かにレギュラーの座を手放し、淡々と代打や人的補償での移籍を受け入れる。それは例えば、打順降格を不服として首脳陣と衝突し、巨人から戦力外を告げられ怒りの涙を流した清原和博とは、対照的なプロ野球人生でもあった。2008年に西武の江藤は代打の切り札として若いチームを支え、日本シリーズで古巣の巨人を下し日本一に。翌2009年限りで現役を引退した。

 無類の人の良さで知られた“微笑みのバズーカ”。なお、多くの大物選手を獲得し続けた長嶋巨人において、日本中から注目されるプレッシャーの中、移籍後2年連続で30本塁打を放ったのは、江藤智ただひとりである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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