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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第17回「ウォーリーの『NO!』の絶叫」

 

大洋戦での優勝決定後、胴上げされる与那嶺要監督


優勝は僕のおかげ!


 元気がなかった僕の古巣ドラゴンズ、日本ハムが、ほんの少〜しだけ上がってきました。その一方でジャイアンツが、まさかの13連敗。ただ、FA選手がやっと出そろい、山口俊も復帰戦で好投しました。上位と差が開いてしまいましたが、まだまだこれからです。

 今回は1974年、昭和49年です。ドラゴンズが巨人のV10を阻止し、54年以来のリーグ優勝を果たした年です。残念ながらロッテに敗れ、日本一にはなれませんでしたけど、アマ時代を通じて、野球での優勝は初めてなので、うれしかったですねえ。

 先週、きれいにまとめたつもりのウォーリー(与那嶺要監督)との関係ですが、すいません、また文句が少し出てきちゃいます。別にウォーリーが嫌いだったわけじゃないんです。本当に尊敬する指揮官でした。そこは勘違いしないでください!

 僕はプロ6年目。開幕から外野でスタートしたんですが、なかなかスタメンには定着できなかった。相変わらず、「打ったり打たなかったり」、というか、「打たなかった、打たなかった、打たなかった、打った」くらいでしたね。

 流れが変わったのが、6月2日、札幌円山での巨人戦です。この試合でサードの島谷金二さんがじん帯を損傷したんですよ。同じ部屋で部屋子(同部屋の後輩)だった僕も付き合いよくというのか、その日、頭にデッドボールを食らって、2人とも医務室のベッドで寝ていたことを思い出します。

 僕は大したことなかったけど、島谷さんは2カ月以上、試合に出られなくなった。それでウォーリーが「サードができる選手はいないか」と言ったら、守備コーチの森下正夫さんが「1人います。大島がいる。大島はサードいけます!」って言ってくれたんですよ。

 でも、即座にウォーリーが、すごい剣幕で・・・

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中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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