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冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!

大島康徳コラム第64回「2000安打へ、みちのく一人旅」

 

8月12日西武戦[札幌円山]で1998本目。このまま一気にと思っていたら……


首筋が寒くなる……


 5月29日、新聞の解説の仕事で東京ドームの巨人日本ハム戦に行ってきました。交流戦の初日ですが、結果はご存じのとおり、日本ハムが5対3の勝利です。

 大谷翔平(現エンゼルス)ら主力が抜けたこともあり、正直、開幕前は、今年の日本ハムは苦戦するだろうと予想していました。それが29日現在パの2位。失礼しました。

 僕のブログ『ズバリ! 大島くん』でも書きましたが、日本ハムの強さは、相手のミスに乗じて攻め、ここぞという場面で力を発揮する、打線を中心とした強さとしたたかさだと思います。栗山英樹監督のさい配も迷いがないし、思い切りがいい。このまますんなり行くとは思えませんが、交流戦、そしてリーグ戦再開後も台風の目となっていくかもしれません。

 球場で“癌友(がんとも)”のエモヤンこと江本孟紀さんにもお会いしました。少しおやせになっていましたが、とてもお元気そうで安心しました。僕と一緒で、球場で選手やファンからたくさんパワーをもらっているんでしょう。意地っ張りで毒舌の方(かた)だから、自分からは絶対に、そうとは言わんでしょうけどね。

 連載では、ここ何回か“日本ハムの陽気な仲間たち”について書いてきましたが、あんまりほかの選手のことばかり書いていると、世の大島ファンが寂しがるかと思い、今回は僕の話に戻ってみたいと思います。

 だいぶ本筋から離れていたんで、少し重なる個所もありますが、まずは日本ハム1年目を終えたあたりからリスタートさせてください。

 1年目の88年、久々の全試合出場で規定打席にも届き、打率.276、15本塁打、63打点と個人的にはまずまずの成績を残すことができ、チームも3位でした。ただ、オフに高田繁監督が辞め、今度は中日時代の監督でもあった近藤貞雄さんが監督になりました。

 もう63歳とおじいちゃんだったので少しびっくりしましたが、狙いとしては悪くないかなと思いました。高田さんは厳しい監督だったので、選手が顔色を見て萎縮しているところがあった。近藤さんは、いわゆる放任主義ですから、若い連中も少し余裕を持ってできるかな、と。どっちがいい悪いではないですよ。実際、結果は高田さん時代のほうがはるかによかったですしね。

 同時に思ったのが、「やばいな」です。近藤さんは若手が大好きなんですよ。新しい人をドンドン使いたがる。それを思い出して、すっと首筋が寒くなりました。長男も小さかったし、ナオミさんのお腹には下の子がいました。このままクビになるわけにはいきませんからね。

 チームのベテラン、島田誠古屋英夫らにも「近藤さんは年寄りには結構きついから、自分が出たときはピリッとしないと、若手に取られるよ」と言い、逆に若手には「絶対チャンスが来るからな。ベテランが2打席で交代したら、その後の2打席は必ずチャンスをもらえるから頑張れ」と伝えました。

中年の星だった


 年齢に加え、日本ハムがまだ戦う集団になっていなかったこともあって、少しずつ「チームのために自分は何ができるか」という思いが強くなっていた時期でもあります。中日時代になかったわけじゃありませんよ。ただ当時のドラゴンズは、ほとんどの年で優勝争いをしていましたし、「自分が結果を出すことがチームの勝利につながるんだ」と思って、ただガムシャラにやってました。若手にアドバイスすることも増えましたが、基本的にはコーチもいますから「聞かれたときだけ」と思っていました。さらに、これは指導者になってもそうでしたが、“ああせいこうせい、あれダメ、これダメ”と言ったことはありません。むしろ「お前は、ここがいいんだから、そこを大事にしながら、思い切り自分のスイングすればいい」という感じですね。自分の技術や経験をひけらかす気なんてまったくありませんが、「長くプレーしたほうがいいぞ。おカネも稼げるから投げ出さずいこう」って言ったこともあります。

 僕がどのくらい役に立ったかは分かりませんが、少しずつ若い選手が変わっていったのは確かだったと思います。

 自分自身もそうでした。それまでは、速い球に負けない強いスイングをしようとスイングスピードを追い求めていたのが、速い球を遅く振っても飛ぶ方法があるんじゃないかと考え方にも幅が出てきた時期です。

 89年は38歳で迎えたシーズンです。当時はいまより選手寿命も短い。先輩はもう当時オリックスにいた門田博光さんくらいでした。門田さんは「中年の星」と言われていましたが、僕も同じ世代の人たちに少しは元気を与えることができていたようです。ホテルで突然、「同い年なんです。頑張ってください!」と言われたこともあります。

 結局、89年は2年連続フル出場。打率は少し下がり、.265でしたが、ホームランは少し増え18本です。移籍3年目の90年は通算1914安打と、2000安打まで、あと100本を切って迎えたシーズンです。さすがに記録は頭にありましたが、当時よく言っていた「記録なんて関係ない」も本音です。2000安打のためにやってきたわけではありませんし、記録達成で引退みたいな雰囲気も嫌だった。僕は単なる通過点と思っていました。あちこちに痛みや違和感もありましたが、気力は十分。体力の衰えは技術でカバーできます。まだまだ、やっていける自信はありました。

野茂のヤツ……


 ただ、てこずりましたね。最初はオールスターくらいまでにと思っていたんですが、そうはいかなかった。

 それでも7月半ば以降の2度大爆発があって一気にヒットが増えました。13日から28日まで38打数17安打、打率.447! その後、タコが3試合ありまして、8月1日からは31打数13安打、打率.419。通算打率も.292まで上がりました。

 8月3日から平和台でダイエー3連戦があったんですが、球場に行く前にパチンコをやっていて、記者に、「店の名前が『ラッキー』だからあやかろうと思ってな」と冗談を言ったこともあります。実際、3試合で5安打。ラッキーな店でしたね。

 でも、あと3本となってからが大変でした。8月14日からの本拠地東京ドームのロッテ3連戦は12打数1安打。セレモニーの準備もしてもらっていたようですし、申し訳ないことをしました。

 このころ近藤監督は、僕を一番打者で使ってくれていました。実は、近藤さんは中日でホームラン王争いをした83年も同じことをしてくれたことがあります。気を使ってくれたと感謝はしていますけど、もともと、そういう変わったことをするのが大好きな監督でもあります。

 そこから18日、19日と対近鉄の東北遠征。そのとき急にナオミさんが「私も見にいきたい!」と言ってきたんです。それまでは地方についてくるなんてなかったんですけどね。

 1試合目、盛岡での近鉄戦の前、17日の夜でした。僕はナオミさんと2人で、地元の知り合いの寿司屋に行ったんですが、たまたま翌日先発の野茂英雄くんがいたんですよ。ルーキーイヤーで“トルネード旋風”を起こしていたシーズンです。

 僕が「おお、野茂くんか。あしたは先輩を立ててね!」と言ったら、爽やかな笑顔で「分かりました!」って言ってくれたんですが……何が立てるだ! 全打席初球からフォークボールを投げ込んできて、2打席凡退2四球です。

 ため息です。

PROFILE
大島康徳/おおしま・やすのり●1950年10月16日生まれ。大分県出身。右投右打。中津工高からドラフト3位で69年中日入団。3年目の71年に一軍初出場の試合で本塁打を放つ。76年にはシーズン代打本塁打7本の日本記録。翌77年に打率.333、27本塁打の活躍で不動のレギュラーとなり、79年にはリーグ最多の159安打、36本塁打、リーグ3位の打率.317の大活躍。83年には36本塁打で本塁打王にも。88年に日本ハムへ移籍、90年には史上最多の2290試合を要して2000安打に到達した。94年限りで現役引退。2000年から02年まで日本ハム監督も務めた。現役通算成績2638試合、2204安打、382本塁打、1234打点、88盗塁、打率.272。

中日、日本ハムで主軸打者として活躍し、日本ハムでは監督も務めた大島康徳氏が自らの一風変わった野球人生を時に冷静に、時に熱く振り返る連載コラム。

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