週刊ベースボールONLINE

惜別球人2020

岩隈久志 引退惜別インタビュー「メジャー移籍は、楽天出身の僕が活躍することで『東北の皆さんに希望を届けられれば』と考えました」

 

歴史の節目には、必ず右腕の名前があった。2001年の近鉄優勝時には救世主として、04年の球界再編時は若きエースとして奮闘。日本の2度目のWBC制覇時には決勝のマウンドに立ち、東日本大震災時は楽天の大黒柱だった。日米合わせて4つの球団で計21シーズンを投げ抜いたが、すべては苦難を乗り越えた時に支えてくれた人たちのためだ。
取材・構成=坂本 匠 写真=榎本郁也、BBM


戦場で戦ってやり切った


 うれしいニュースが飛び込んできた。1月13日、2020年限りで現役を退いていた岩隈久志の、マリナーズ特任コーチへの就任が発表された。日米を股にかけて170勝を挙げた21世紀を代表する右腕の1人。まずは新たなキャリアと、引退までの経緯を整理しよう。

──1月13日にマリナーズ特任コーチへの就任が発表となりました。10月の引退発表時には「今後の予定は決まっていない」と話をしていて、以降、動きがなかったので、うれしいニュースでした。

岩隈 引退を決めてからしばらくは本当に何も決まっていなくて、1年くらいゆっくりしようかなと。そうしたら、昨年末にマリナーズのほうからオファーがありまして、家族ともいろいろ話し合いをもった結果、引き受けさせていただくことになりました。そもそもメジャーの球団からこのような話が来るのは、なかなかないし、光栄なこと。しかも、7シーズン過ごした古巣から声を掛けてもらったということも、すごくうれしかったです。

──「特任コーチ」とは具体的にはどのような役割、仕事となるのでしょうか。

岩隈 ピッチングコーチのアシスタント的な形で関わらせてもらって、メジャーに限らず、マイナーの選手たちも見ることになる予定です。トップチームが遠征に行っているときはシアトルに残り、シアトル(近郊)にも傘下のマイナーチームが2チームありますから、このチームを巡回することになると思います。日本に帰ってきたときは、スカウトの手伝い、日本の選手の情報を伝える、そういう役割も任されるようです。

──アメリカ出発はいつの予定ですか。

岩隈 スプリングキャンプの開始に合わせて来てくれ、と言われています。コロナの影響もありますが、4月1日の開幕に向けて動いているようなので、そのつもりで準備をしたいと思います。

──あらためて引退決断までの経緯を整理させてください。まだペナントレース途中の10月19日の引退発表となりましたが、決断はどの段階でしたのですか。

岩隈 まず、一昨年(2019年)に巨人に移籍してきて8月にイースタンの試合に投げましたが、それ以来、公式戦での登板がない状況。昨年も1年間、コンディションを上げていこうというところで、9月の後半にジャイアンツ球場でシート打撃に登板しました。投げてみた感覚は、50パーセント程度。ただ、100には届かないまでも、頑張れば70〜80までは持っていけるかな? と。久しぶりにバッターに対して投げたものですから、原(原辰徳)監督から「今、どれだけ投げられるのか、一度、ドームに来て見せてほしい」と連絡を受けました。指定されたのが10月7日。監督は2年間、僕のことを見ていなかったので、ここが勝負だなと。残された時間は少なかったですが、できる限りのことをして、この日を迎えました。

──岩隈さんのためだけに用意されたシート打撃の舞台だったそうですね。

岩隈 登板前、あいさつに行くと、何とか一軍で投げさせてあげたいという監督の思いをヒシヒシと感じました。でも……。ドームのマウンドに立って、投じた1球目に肩を脱臼。激痛でした。腕を振った状態で動けない。肩をはめてもらって、そこから1週間後、話し合いの場を持つことになるのですが、この間に引退を決めました。右肩脱臼は、自分の体が訴えてきたわけですから。「もう、いいだろう?」と。そう考えると、やり切ったという気持ちになって、決断できました。19年に原監督に呼んでもらって、もうひと花咲かせるつもりでいたのは確かです。ここでやり切る覚悟で日本にも戻ってきました。でも、1年やって、コンディションが整わず、結果が出なかった。

──「コンディション」というのは、17年に手術をした右肩の状態のことですか。

岩隈 そうです。引退を決断した最大の理由も、肩です。投げられる状態まで上がるけれど、翌日にはドンと下がっての繰り返しでした。17年の手術後、18年はマイナーでも投げて、良い方向に行くと思っていたのですが……。結局、肩の安定感を保つことができませんでした。ただ、「引き際」ということに関して言えば、メジャーで2〜3年目くらいから考えていました。それくらいから隣合わせだったというか、覚悟を持ってやっていたわけです。縁あってジャイアンツに入ったものの、1年目がダメ……。実は、昨シーズンが始まる前から、良くても悪くても「今年で最後」のつもりで臨んでいました。試合ではなかったですけど、最後の瞬間は、マウンドにいて、投げて終わった。戦場で戦ってやり切ったという感じがあるので、本当に悔いのない野球人生でした。

2020年11月7日、東京ドームで引退セレモニー。ファンにお別れを告げた後、3人の子どもたち、ジャイアンツナインと記念撮影


──最後の球団となった巨人は岩隈さんにとって、どのようなチームでしたか。そもそも、日本復帰に巨人を選択したことに驚いたファンも多かったと思います。

岩隈 原監督とは09年のWBCで一緒にやらせていただいていて、その縁もあって、ジャイアンツに呼んでもらいました。このときは僕自身にももうひと花咲かせたいという思いもあって、ジャイアンツを選びました。一軍でやり切れたら最高でしたけれど、それは叶わなかった。でも、素晴らしいチームメートと出会えました。多くの時間をジャイアンツ球場で過ごし、試合には入っていけませんでしたが、今できることを全力でやろうと考えていて、それは若い子へのアドバイスもそう。彼らといろいろなコミュニケーションをとって、良い時間を共有できたと思っています。

きっかけは09年WBC


 12年のマリナーズ移籍から7シーズンで63勝、2ケタ勝利3度と、日本を代表する右腕はその力をメジャーの舞台でも証明して見せた。そんな岩隈が語る、日本とアメリカの野球の違いとは。

──巨人移籍で19年に日本復帰前は、アメリカで7年間を過ごしました。異国での経験を振り返ってください。

岩隈 野球が全然違うんですよね。よく言われるのが日本は「野球」で、MLBは「ベースボール」。同じ競技なんですけど、文化も質も違うし、パワーも違う、スピードも違う。すべてMLBが日本を上回っているということではないんです。緻密なチームでの戦いを重視する日本の戦いはどこにも負けない。流れの中でのセオリー、勝つための戦術、誤解を恐れずに言えば、そういったものはアメリカにはほとんどない。一方で、アメリカはシンプルに力と力の勝負をする場所。でも、僕にとってはそれがすごく楽しかったです。

──そのベースボールに、どうやって立ち向かったのですか。

岩隈 「力と力の勝負」とは言いましたけど、僕はパワーで勝負できるタイプではありませんので、それこそ日本で培ったセオリー、駆け引き、つまりバッターがこの場面で何を考えているのか、どう打ってくるのかを考えて、低めにコントロール良く集め、ボール球を振らせて凡打をさせる。そういうピッチングスタイルを確立していきました。

──そもそもMLBでプレーすることへの思いを持ったのはいつごろのことですか? 楽天移籍6年目にあたる10年のオフに1度、ポスティングでMLB移籍を目指しています。これは交渉が不調に終わり、不成立となりましたが、翌11年のオフに海外FA権を行使してマリナーズに移籍することになります。

岩隈 一番のきっかけは09年のWBCですね。ドジャー・スタジアムでも投げる機会があって、向こうの雰囲気を肌で感じることができて、純粋に「良いな」と。チームメートだった松坂大輔(当時レッドソックス)さんなどが活躍する姿も見ていて、自分もやってみたいな、という気持ちが膨らんできました。11年は東日本大震災があり、自分自身にもケガもあって、イーグルスに残るか、FAするのかといろいろ悩みました。東北の皆さんと一緒に前へと進む気持ちでシーズンを戦い抜いて、前の年は失敗しましたけれど、もう一度、チャレンジしたいなと。僕の中ではファンの皆さんを裏切るのではなく、楽天出身の僕が、活躍することで東北の皆さんに希望を届けられれば、と考えました。その中で、マリナーズが手を挙げてくれました。正直なところ、お金ではなかったし、金額的には前年給料の半分以下で移籍することになったのですが、そこに重きを置いたわけではありません。人生は1回きり。メジャーはどういうものなのかを感じたかったんです。

──7年を過ごしたアメリカ、MLBは求めていた舞台でしたか。

岩隈 先ほども少し触れましたが、メジャーはチームではあるけれども、個の塊。その中で、自分自身がどうやって先発として役割を果たしていくか、いけるか。簡単に言うと、そこに集中できました。日本の場合は、試合を作る以外にも、果たすべき仕事がある。それはそれで日本の文化として、自分はOKなんですが、メジャーはシンプルにプレーに集中できる。どちらかというと、何も考えずに打つ、投げる、守る、走るを純粋に楽しんだ、小さいころの野球の延長ですよね。

──メジャーでは150試合に登板して、63勝39敗2セーブ。防御率は3.42という成績を残しました。MLB6年で2ケタ勝利は3度あります。

岩隈 数字だけ見たら、もっとできたし、もっとしたかったな、と思います。一番大変なのは体力です。移動距離も長く、試合数も多いし、先発は登板間隔も短い。悔しいですけど、こういう環境だと、結局、メジャーはパワーがあるやつがタフで、強い。そういうふうに見えてきちゃいますよね。でも、引退した今振り返ると、そんな奴らを相手に投げて、楽しい思い出ばっかりがよみがえってきます。

2015年8月12日のオリオールズ戦で先発し、ノーヒットノーランを達成。日本人選手では01年の野茂英雄[レッドソックス]以来2人目の快挙


──15年の8月17日のオリオールズ戦(セーフコ・フィールド)では、ノーヒット・ノーランも記録しています。日本人では野茂英雄(01年。当時レッドソックス)さん以来、2人目の快挙でした。

岩隈 日米21年間でこの1回きりですからね。メジャーでは完投もこの1度だけ。日本にいるときから、僕は力でねじ伏せるスタイルではないので、縁はないな、と。7回100球が1つのテーマ。そう思っていたので、不思議でしたし、すごくうれしかったです。

──MLB行きへの興味を持ったという09年のWBC、日本代表についても教えてください。04年のアテネ五輪でも日の丸をつけて戦っています。

岩隈 04年は球界再編問題に揺れる年ですが……、日本代表では一番年下で、シーズンの調子は良くて自信もあったのですが、代表では緊張しっぱなしでまったく貢献できませんでした。チームもオールプロで銅メダルに終わった。そういう悔しい思いが代表にはあったので、09年に選ばれたときは自分の持っている力を全部出したいと考えていました。

MLB移籍のきっかけとなったという2009年のWBC。先発3本柱の一角を担った岩隈は、決勝の韓国戦でも好投。世界一連覇に大きく貢献した


──09年のWBCは、松坂、ダルビッシュ有(当時日本ハム)両投手とともに、原監督に先発3本柱の1人として大きな期待を受けます。出場全投手中最多の合計20回を投げ、3失点で防御率1.35。優秀選手賞を受賞します。やはり、ハイライトは決勝の韓国戦(7回2/3を2失点に抑える快投)でしょうか。

岩隈 2次ラウンドのキューバ戦、負けたら終わりの敗者復活戦のキューバ戦も印象深いですけど、やっぱり、決勝ですかね。1次ラウンドの韓国戦(1位決定戦)でも投げていて、負けはするんですが1失点で、イメージがあったのも良かった。受けてくれた城島健司(当時マリナーズ)さんのリードも素晴らしくて、僕もその意図を理解して投げることができた。後ろにもいっぱい素晴らしいピッチャーが控えていたので、思い切って投げたのが良い結果につながりました。後のジャイアンツ移籍も含めて、WBCが自分の人生の大きなターニングポイントだったのかなと思います。

奇跡を信じていた


入団からわずか5年の在籍となった近鉄だが、2年目の01年はV争いの渦中に4勝を挙げて救世主となり、04年の球界再編時はエースとして奮闘。近鉄最終戦では涙を見せた


 岩隈を語る上で、プロキャリアをスタートさせた近鉄、そして楽天で過ごした時間を無視することはできない。あまりにも濃密な12年間を振り返る。

──21年のキャリアを振り返っていくと、WBC優勝もそうですが、さまざまな歴史的な事件、事柄が岩隈さんの周りで起こります。キャリアをスタートさせた近鉄、大きく成長する楽天での合わせて12年間もそうでした。

岩隈 近鉄は僕をプロの世界に入れてくれた球団ですからね。5年間と短い時間でしたが、すごく濃い時間でもありました。そんな球団がなくなるなんて思ってもいなかったですけど……。

──チームメートも相当濃いメンバーばかりでした。

岩隈 大村直之さん、中村紀洋さん、礒部公一さんにタフィー・ローズ。投手陣には前川勝彦さん、山村宏樹さん、高村祐さんに大塚晶文さんと、超個性的な顔ぶれ。めちゃくちゃ大人に感じたし、高校出て2年目から投げさせてもらいましたが、怖いオジサンたちの中に入っていったような感覚です(笑)。優勝は01年の1回だけでしたけど、いてまえ打線で、強いチームだったな、と思います。

──先ほどお話にも出た、アテネ五輪の04年に球団合併、球界再編問題が沸き起こります。当時23歳。背番号21をつけ、この年の開幕戦先発(近鉄最後の開幕投手)を任されるなど、若きエースでした。

岩隈 激動の1年で、どんな始まりだったか……。そういうウワサはまったくなく、突然やってきたことを覚えています。最初は「何言ってるの?」と「え? 近鉄、なくなっちゃうの?」と。とにかく近鉄がなくなることが嫌でした。「合併? 買ってくれればいいのに」「オリックスって、いつも戦っているチームじゃん……」と。それが本当に嫌でした。

──ストライキにまで発展し、その後、楽天という新球団ができ、12球団2リーグは維持。そのかわり、近鉄はオリックスと合併し、事実上、チームはなくなってしまいます。その中で岩隈さんは15勝を挙げて最多勝を獲得するわけですが、どんな思いで最後まで投げたのですか。

岩隈 最後まで抵抗していた記憶があります。皆さん応援してくれましたし、署名活動にも一緒に参加してくれてね。頑張って、良い野球を見せることができれば、何か奇跡が起こるんじゃないか。そう思って最後まで投げていました。何とかなるだろうと。どこかで思っていたんですけどね。近鉄で育った選手なので、その誇りもありますし、なくなってしまいましたけど、スタートが近鉄で本当に良かったと思います。

──最初は近鉄の合併先のオリックスに分配されることとなりましたが、新規参入の楽天に移籍が決まります。

岩隈 なんで、分配ドラフトだったのか。吸収合併、新規参入球団なので、仕方ないのかもしれないですけど、近鉄の選手とやれるなら会社が変わっても良かったんですが、それがすごく寂しかったです。ただ、新たな球団ができて、一からやり直せるなら、それがいいと、楽天でやりたいなと思いました。

──一からどころか、ゼロからのスタート。04年に最多勝を獲得している岩隈さんが、まさに投手陣の、チームの大黒柱となって引っ張っていくことになります。

岩隈 振り返ると大変でした。最初は「100敗するんじゃないか?」とか言われましたね。でも、自分が投げている以上、そんなことはさせない、と。とにかく投げて頑張って、勝てるチームにしていくしかないと。でも、1年目、僕15敗しましたからね(苦笑)。大変でしたけど、すごくうれしかったのが、東北の、仙台のファンの方たちが負けてもすごく応援してくれて、球場に足を運んでくれて、「次、頑張れ」と言ってくれて。それがうれしかったですね。ファンの皆さんに支えられて強くなっていった。僕はいなかったですけど、13年に日本一ですから。自分のことのようにうれしかったです。

──11年の東日本大震災を乗り越えての日本一でした。

岩隈 11年は星野(星野仙一)監督時代でしたね。遠征中で何が起きたんだと。正直、野球どころではない。開幕も少ししか遅れなくて、本当にそれでいいのか?と思っていました。ただ、星野さんも「お前らには野球しかないんだから」と。プロ野球選手として、野球で戦って、前進していこうと決めてやっていきました。あのときの開幕戦(4月12日、対ロッテ@QVCマリン)も緊張したな〜。背負うものが違う。いろいろな人の思いをもって、マウンドに向かったのを覚えています。勝てたのですごくうれしかったな。

──楽天での7年を振り返ってください。

岩隈 人間的にも成長させてもらった7年でした。本当に何もないところから始まって、僕自身は天狗になって、鼻をへし折られて、ケガをして、二段モーションが禁止になって……。自分自身を見つめ直して、基本に立ち返り、08年に21勝で再びタイトルが獲れた。あの時間がなかったら、今の自分はないのかもしれません。

──最後に、これから先、思い描いているビジョンを教えてください。

岩隈 今年はマリナーズからコーチとして迎え入れてもらえますので、そちらで貢献しつつ、これからも日々、勉強という思いで進んでいって、長く野球に携わっていけたらいいなと思っています。

CLOSE-UP 2005年、楽天初陣で勝利


開幕のロッテ戦で勝利し、記念すべき楽天1勝目を挙げて田尾安志監督[左]と握手


 05年の開幕は3月26日のロッテ戦(千葉マリン)でした。自分が先発して9回7奪三振1失点の完投勝利(3対1)。新しいチームであわただしく迎えた試合はめちゃくちゃ緊張しましたが、勝てて本当にうれしかったです。

記録メモ RECORDS&TITLES


[背番号]
48(2000〜02)
21(03〜11、19〜20)
18(12〜17)

■初登板・初勝利=2001.5.29 vs.日本ハム(東京ドーム)
■初先発=2001.6.10 vs.日本ハム(大阪ドーム)
■MLB初登板=2012.4.20 vs.ホワイトソックス(セーフコ・フィールド)
■MLB初勝利=2012.6.16 vs.ジャイアンツ(セーフコ・フィールド)

[主な獲得タイトル&表彰]
■MVP 1回(2008年)
■最多勝利 2回(2004、08年)
■最優秀防御率 1回(2008年)
■沢村賞 1回(2008年)
ほか多数


PROFILE
いわくま・ひさし●1981年4月12日生まれ。東京都出身。190cm95kg。右投右打。投手。堀越高から00年ドラフト5位で近鉄入団。2年目の01年にデビューを飾り、4勝を挙げて優勝争いを繰り広げたチームの救世主に。02年に先発ローテーションに定着。03、04年は2年連続の15勝で04年は最多勝のタイトルを手にした。球団合併に際して紆余曲折の末に楽天へ。1からスタートしたチームをエースとして支え、12年にマリナーズへ。7シーズンを過ごし、19年に巨人移籍で日本復帰。20年限りで引退した。04年のアテネ五輪、09年のWBCなど日本代表でも活躍した。

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング