長嶋監督のキャンプでのアップ(?)風景。一挙手一投足に華がある
ヒザカックンは誰だ?
前回続き、
巨人終身名誉監督・
長嶋茂雄さんの話だ。
長嶋さんは「いつも長嶋茂雄でいるのは大変なんだよ」と言われたことがあったそうだが、見られている自分、ファンがこうあってほしいと思う「長嶋茂雄」を演じていた部分は確かにあったと思う。
しかし、“ナマ”の長嶋茂雄に近くで接することができた僕にとっては、監督は本当にユーモアあふれる楽しい人だった。
長嶋さんの伝説の一つに「長嶋語」がある。「いわゆる1つの」「失敗は成功のマザー」とか……。英語を織り交ぜたり、ユニークな言葉を使ったりすることはよくあった。でも、ほとんどの言葉はとっさではなく、もともと狙っていた感があり、悪い意味ではなく、計算されているという気がしていた。
皆さん、監督はいたずら好きだということをご存じだろうか。
東京ドームの試合前の練習時間、そろそろ監督が姿を現す時間帯、記者、テレビクルーなど二十数名の報道陣が監督のグラウンド登場を待つ。僕も同様、グラウンドで監督を待つ。そのときに、だれかが僕に後ろから『ヒザカックン』!
その場で僕はもんどりうってひっくり返った。
何が起こったのかと、狐につままれたような気分の僕が付近で大笑いしていた多くの記者たちに犯人を尋ねると、記者たちは何事もなかったように涼しい顔で打撃ケージのほうへ歩いていく監督を一同で指さした。
「えっ、か、監督が?」
恥ずかしいより驚いたけど、記者たちと一緒に大声で僕も笑ってしまった。しかし、『ヒザカックン』でコケた僕を笑っていた記者たちは、そのとき監督をつかまえて話を聞くという大事な仕事を逃してしまったのだ。皆さんも監督にしてやられましたね。
言い間違いも面白かった。96年ごろの宮崎キャンプだったと思うが、
川口和久と
阿波野秀幸が投げていたブルペンを見たあと、「きょうの阿波口(あわぐち)はよかったねえ」と言ったことがある。記者たちは2人の名前が一緒になっていることは分かっていたが、どちらの左腕をさしてコメントしたのかが分からず困っていた(笑)。
96年と言えば、大逆転優勝の「メークドラマ」の年だが、この言葉自体も有名な長嶋語録の一つだ。一部では「長嶋さんらしい和製英語」と言われていたが、語呂がよく、分かりやすく、感性あふれているところが素晴らしい。「メークドラマ」という言葉は存在しないなんてよく言われていたけど、「いいんです! 存在しないから面白い」。
小さな手帳に数字が
1994年「10.8」の試合後。左から2人目が筆者
長嶋さんと言えば、これは1期目(75〜80年)からだが、采配が“勘ピュータ”と言われ、データを無視し、ひらめきでやっているように言われることが多かった。でも、僕はこれは違うのでないかと思う。
それを感じた、ある出来事を紹介しよう。
僕が仕えた2期目の時代、監督は年齢もあり、老眼で小さい文字を読むのがつらかったはずだが、人前では絶対にメガネをかけなかった。ファンの方々は昔からの長嶋茂雄の姿が目に焼き付いているわけで、メガネをかけている姿を見せては、そのイメージが変わってしまうからだ。僕は「ああ、これが見られているスターの意識なんだな」と思った。見せることもファンサービスなのである。
監督は代打など選手交代でベンチを飛び出すときも必ずグラウンドコートを脱ぐ。2階席、3階席で観戦している多くのファンも遠くから監督のユニフォーム姿を一目見ることで満足するのだ。その多くのファンの気持ちを監督自身が分かっている。
プライベートのファッションもお洒落なのは有名だ。洋服の着こなし、センスは抜群で、現役時代とほぼ変わらぬ体型を維持する努力も惜しまなかった。特に体重管理には注意をしていたようで、ナイトゲームのときに「なんだ、君らは家に帰ってからはもう何も食べないんだろな、夜は食べちゃだめだぞぉ」とよく言われた。
話がそれてしまったが、監督はファンの目には見えない場所ではメガネをかけるときもあった。例えば、移動のバス……メガネをつけ、小さな手帳に何やら書き込んだり、読んだりしていた。
監督はバスで一番前の座席に座られる。僕ら広報は二番目くらいだったが、別に意識はしないけど、背もたれの隙間から見えてしまったのだ。その小さい手帳には字がぎっしりと書いてあった。しかも、よく見るとそれはほとんどが数字。さまざまなデータだ。意外だったし、監督のイメージが変わった。
それから僕は監督の言動、行動を常に興味深く観察するようになった。そこから、どれくらいのものを学んだか、どのくらいのものを悟ることができたか。まさに、見て、感じる教科書であり、それが広報担当者としてどれだけ役に立っただろう。
長嶋さんのファンやメディアへの接し方は、選手も見習ってほしいと今も強く思うのである。(文・
香坂英典)
PROFILE こうさか・ひでのり●1957年10月19日生まれ。埼玉県出身。川越工高から中央大に進み、東都大学リーグで79年春にノーヒットノーランを含む7勝を挙げ、優勝に貢献。全日本大学選手権でも優勝した。80年ドラフト外で巨人入団。84年限りで引退。一軍では8試合登板で1勝0敗0セーブ、防御率4.38。引退後、打撃投手、先乗りスコアラー、広報など巨人一筋で過ごし、20年退社。