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DeNA初代監督・中畑清インタビュー 「DeNAを愛していたし、ファンからも愛された4年間だった」 「自分の思いどおりのチーム作りと人間作りができたと思っている」

 

新しき球団の顔になるにはもってこいの監督だった。絶好調男・中畑清横浜DeNAベイスターズ初代監督は、前年までの4年連続最下位は関係なかった。自分が信じるチーム作りにまい進した4年間だった。
取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM

“営業本部長”としてDeNAファンを獲得するために、アイデアを練りファンサービスも惜しまなかった


柿10個が監督の契約金?


 監督をやりたいという強い思いで引き受けたDeNAの監督。実際に中に入ると厳しい状況に直面した。さまざまな面でチーム方針を作り出しながら、一方でファンを増やすべくアイデアを練り、メディア戦略もこなす「営業本部長」ぶりを発揮していった。

 家が近所とはいえ、後カゴが付いたママチャリに乗って監督要請をしに来るとは思っていませんでしたね。カゴには家の庭になった枝付き柿を10個入れて……。どこのおじさんがやって来たのかと思ったら高田さん(高田繁GM。当時)でした。私は、そのときまだ高田さんがDeNAのGMになったのを知らなかったので、ただ柿を持ってきてくれただけだと思ったら……。

「いろいろなことを考えている中で監督についても候補がいてね。もしそのときは清にお願いしようかと考えているんだけど」というお話をされたんです。私が何て言ったかですか? そりゃあ「私が監督をやりたいのは分かっているはずでしょ!?」とね。このときはそれだけで家に帰られた。翌日すぐに電話がかかってきて「監督をお願いするから」と。そこで急いで入団会見が組まれたというわけです。多分ほかの監督が要請を受けるときは、契約金の話もあるはずですが、私の契約金は「柿10個」ということになっているんですよ(笑)。

 それでも監督をやってみたいという気持ちが強かった。だからDeNAが当時4年連続の最下位だからどうとか、再建しなきゃという重圧もさらさらなかった。マイナスからのスタートでもまったく構わなかったし、そういうチームのほうが自分のカラーを出しやすいと思っていましたよ。

4年連続最下位のチームを引き受けただけに、チームの実力不足に苦しむ。結果は最下位2度、5位2度と満足いく成績は残せなかった


 ただ入ってみたら、あまりにもひど過ぎて、やはり4年連続最下位のチームだなと。戦力はないし、守備もひどかった(笑)。だからこそ、いかに若手を育てるか、というところも焦点の一つでもありました。ただ、この育成に関しては自分に合っているし、いいチャンスに恵まれたな、と。DeNAの現状を見て、私がいかにこれまで巨人の中で恵まれていたか、素晴らしい待遇を受けながら野球をしてきたか、をあらためて感じましたよ。そういうチーム状況の中で、まず選手たちには「どんなことがあっても全力で取り組め」と強く言い聞かせました。そして迎えた新監督としてのキャンプ初日。この日はすごく暖かくいいスタートが切れた1日だったのですが、2日目で急に寒くなった。それでも監督としてカッコつけようとブルゾンは着ないでやせ我慢(笑)。でも1日中ぶるぶると震えながら、唇まで青ざめてね……宿舎に帰ったら高熱で……インフルエンザに。

 それまで風邪など引くことなかったのに、今回の新型コロナウイルス感染もそうでしたけどね……。オフのときに故郷の福島で、東日本大震災のボランティアをするなどいろいろと忙しさもあり、疲れなども一気に出たのでしょう。

 でもこのときは、連日スポーツ紙の一面で話題を提供していましたからね。ホテルの自分の部屋から球場に向かい手を振るパフォーマンスもそれを狙ってましたから。プロ野球というのは、常に話題を提供して、それをマスコミに取り上げてもらわないとダメ。常にマスコミが動くようなチームにしたかった。スポーツ紙や雑誌には、常にDeNAの写真が載るようなチームにしようと考えてましたよ。やはり活字だけだと読者には響かない。テレビもDeNAの映像がないとファンにアピールできない。そこを常に意識してたので、監督というよりは、「営業本部長」といったほうがいいくらいで、監督の意識は薄かったかも……。え? 監督との二刀流? 何を言っているんですか、それ以上、三刀流くらいのことはしてましたよ(笑)。

インフルエンザも広報活動に利用した!?球場が見えるホテルの監督の部屋から手を振り、アピール。スポーツ紙にも大きく扱われた


精神面の充実を目指した日々


 キャンプ前のミーティングなど、ことあるごとに選手には「お前たちと心中する覚悟でやるから、一緒に頑張っていこう」と。それと同時に「最初から最後まで絶対にあきらめないチームにしよう。0対10で負けている9回二死でも粘って粘って出塁するチームにしよう。そうすれば必ずファンは応援してくれるし、必ずついてきてくれる」と私の信念を話し続けましたよ。その気持ちが伝わったのか、最終的にはそれができるチームになっていきましたね。

 それとチーム方針としては「怠慢プレーは許さない」。監督批判はしていいが「コーチ批判は許さない」ということを決め、門限のなかったチームに門限を作って、大人であってもけじめを持たせたんです。

 つまり“弱くてもできることをやろう”と。弱くてもできること、その一つとして「元気を出すこと」もありました。声で相手を威圧し、そして声の連携もしっかりできるようにしていくというチーム内の規律もしっかり作りました。

 そして迎えた開幕戦。阪神戦(京セラドーム)は5対5で引き分けでしたが、思い描いた粘りの試合ができました。しかし、このような試合を143試合も続けるとしんどいなあ、体がもたないよ、と思ったのも事実ですね(笑)。

 弱いチームだったので、どうやっても勝てない試合というのがあるんです。でも、その試合を精神的にどう粘れるかが一番大事。その試合しか球場に足を運べないファンだっているんですよ。そのファンが来て良かったと思える試合を見せたいと思ってやっていましたよ。

 だから4年間一度も試合を捨てるようなことはしなかった自負はある。それはファンに対してウソはついてない。そういうのが、ファンに伝わってドンドン観客が増えていったのではないかと私は思うんですよね。


ミュージカルのような場所へ


 1年目が4回、2年目が15回、3年目が23回、4年目が43回とほぼ倍数で横浜スタジアムの大入り回数が増えていくほど、ファンが球場に足を運ぶようになった。それはまさに中畑が思い描いていた理想の形。選手たちが中畑の野球を理解していったからにほかならない。

 1年目には、選手同士で決めたキャプテン・石川(石川雄洋)とはよくぶつかりましたよ。彼の言い分もよく聞きました。でも、ほぼすべて個人の言い分ばかり(笑)。「チームとしての姿勢をしっかりしろ」ということはよく言い聞かせた。石川本人も徐々に分かってくれるようになり、そこからチームも私の思いを理解してくれるようになった。それは大きかったですね。監督と選手の距離感が縮まり、戦う集団へと変わり始めました。

 就任2年目のシーズンは最高でしたからね。7点差をひっくり返した試合が3試合もあった。憎き(笑)巨人(5月10日=横浜)でもその試合がありましたよ。1年目の東京ドームでは1勝もできなくて、悔しくて悔しくて、悔しくて、はらたつ、のり……イヤ本当に腹立つ試合ばかりでしたから。

 監督4年目になると、いつも横浜スタジアムが満員になって、就任前に描いた形が出来上がっていた。知り合いに頼まれて、試合のチケットをマネジャーにお願いしても「ありません」と、監督でもチケットが手に入らない状況に。うれしかったですよ、このときは。1年目は、5000人くらいしか入っていない試合もあった中で、最後は連日満員。4年目は43回の満員御礼。これこそがプロ野球のあるべき姿だと。

 この4年間で選手たちのキャラクターも立つようになり、話題になるような外国人が入ったりしたのも人気になっていった大きな要因ですよ。それで球場のファンが笑顔になるような、そういう野球ができるようになっていきましたよ。筒香(筒香嘉智)、梶谷(梶谷隆幸)、桑原(桑原将志)なども育ちましたしね。それと山崎康晃。彼をクローザーにして、勝ちパターンが決まった。これも大きかった。

 勝っている試合の9回に康晃が出てくることで、横浜スタジアムに一種のイベントが出来上がった。大きな音楽が流れ、「康晃ジャンプ」が観客席で起こり……今だからいいますけど、本当はうるさかったですよ(笑)。でもあれだけ、盛り上がることはそれまでなかったから素晴らしかった! カッコ良過ぎる舞台を作れた。監督はいわば演出家ですから、そういう場を作り、演者を用意し、ファンに喜んでもらえる装置を備え……野球というものを介したミュージカルを作ったといってもいいでしょうね……自賛してますよ(笑)。

監督最終年となる2015年にはドラフト1位の山崎康晃をクローザーに抜てき。それがうまくハマり「康晃ジャンプ」が大人気に。人気選手も作り出した


 自分の思いどおりのチーム作りと人間作りができた4年間でしたから、自分の中では満足感はあります。でも4年目は首位に立つ時期もありながら、結局最下位に終わった。そこはやはりけじめをつけないといけない。いいチーム作りができたとしても、結果がすべてで、その結果の責任は監督にあるから、辞任したんです。悔い?……ラミちゃん(ラミレス監督)になって1年目にクライマックスシリーズに進出したでしょ? あのときはうれしかったですが、少しだけ「監督を続けていたらなあ」と正直に思いましたね(笑)。

 監督だった4年間、今でもですがDeNAを愛したので、多くのDeNAファンから愛をたくさんもらうことができた。それが何よりもうれしかったし、今でも「監督をもう一度やって」とファンから言われるとたまらない。そこは“DeNAの中畑清”が皆さんの心の中に、常に生きているということです……。

 どう? カッコ良く締めたでしょ!!


PROFILE
なかはた・きよし●1954年1月6日生まれ。福島県出身。安積商高から駒大を経て76年にドラフト3位で巨人入団。「絶好調男」などの愛称で親しまれ、89年に現役引退。93、94年は巨人コーチ。2004年アテネ五輪日本代表ヘッドコーチに就任。体調を崩した長嶋茂雄に代わり監督代行として銅メダルに導いた。12年より横浜DeNAベイスターズ初代監督に就任。人気チームに引き上げ15年限りで退任した

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