週刊ベースボールONLINE

第90回都市対抗野球大会開催記念 SPECIAL INTERVIEW

坂口裕之(日本石油)/7年連続で都市対抗に出場した名門のキャプテン

 

NHKの春、夏の甲子園高校野球の解説での穏やかな語り口が好評の坂口裕之氏。社会人時代は日本石油(現・JX-ENEOS)の主将として、1993年の都市対抗で頂点に立った。また92年のバルセロナオリンピックでは銅メダル獲得に貢献するなど、坂口氏の社会人選手時代は栄光に彩られていた。そんな坂口氏に当時のことをうかがった。
取材=上原伸一、写真=堀哲平(インタビュー写真)、BBM

1993年の都市対抗大会で優勝を果たした日本石油の主将としてチームを牽引


補強は都市対抗で優勝するための1つのカギ


 滑り出しは順調だった。1988年に日本石油(現・JX-ENEOS)に入社した坂口裕之は、いきなり初の公式戦となるスポニチ大会で優勝を経験する。社会人チームでの生活にも満足していた。坂口は「日本石油は名門らしく、当時から野球に集中できる環境が整っていました。寮の食事は栄養満点だし、チームには専属のトレーナーがいたんです。あの頃、社会人野球でトレーナーがいるチームはまだ珍しかったんです」と振り返る。

 ところが、物事はそううまくは運ばない。入社1年目、日本石油は都市対抗出場を逃す。実はこの年、会社は創業100周年で、しかも東京ドーム元年。前年まで6度の優勝を果たしている野球部にとって、“都市対抗には必ず出なければならない”メモリアルイヤーだった。若さと勢いだけでプレーをしていた坂口は、このことで社会人野球の厳しさを知る。「予選敗退が決まった試合で、先輩たちが屈辱に打ちひしがれている様を見て、会社の看板を背負う、その重さを感じました」。

 自チームでの出場は逃したが、坂口は三菱重工横浜(現・三菱日立パワーシステムズ)の補強として都市対抗に出場。三番・ライトで補強としての役割を果たし、8強入りに貢献した。坂口は翌年から引退年の94年までは6年連続で、自チームで都市対抗に出場している。補強選手になったのはこの1回限りだが、社会人野球独自の制度である『補強』の重要性を、身を持って感じたという。坂口は今、こう話す。

「補強される側は、活躍しなければ、という重圧がありますが、受け入れる側とうまくかみ合えば、チームの大きな力になる。補強は都市対抗で優勝するための1つのカギだと思います」

 実際、93年の都市対抗優勝は、日本石油と東芝の補強選手が融合してもぎ取った。東芝からは投手3人、野手2人が補強され、投手では須田喜照と三原昇がフル回転し、野手では谷口英功(現・英規、上武大監督)が6本塁打を放って『橋戸賞』を獲得と、大きな力になった。ただ、それもさることながら、この大会の2年前の都市対抗で4度目の優勝を果たしていた東芝の選手は、随所でチームの引き締め役を担ってくれた。

「逆転してベンチがお祭り騒ぎになっている時も『落ち着け!まだ試合は終わってないぞ』といさめてくれたり。優勝を経験している選手はさすが冷静だな、地に足がついているな、と思いました」

チームから求められていることを実践


日本石油[現・JX-ENEOS]には「相手の嫌がる野球が代々受け継がれている」と坂口氏は言う


 日本石油は、坂口が主将だった93年に7回目の優勝を飾った以降も、都市対抗で4度制覇。11度の優勝は歴代最多である。坂口は「チームに代々受け継がれている『相手が嫌がる野球』も強さの秘密の1つでは」と言う。

 坂口にはこんな思い出がある。これも優勝した93年の都市対抗でのことだ。三菱自動車川崎との準決勝、三番の坂口は3度送りバントを命じられる。だが、3度目は打球を上手く転がせず、失敗してしまう。すると試合後のミーティングで林裕幸監督から「坂口、お前はバントしたくなかったのか。本当は打ちたかったのか」と、強い言葉で叱責されたという。

「もちろんそんな気持ちはなかったんですが、あの打席の時、すでにあと少しでコールド勝ちになるくらいの点差がついていた。それでも送りバントのサインが出る。これが日石の野球なんです。相手からすれば“まだ送ってくるのか”となりますからね。嫌だと思いますよ。その一方で、1点を取っても追いつかない展開の時はバントで進めず、打っていく。私は97年から2000年まで監督を務めましたが、やはりこういう野球をやってました」

 坂口は社会人の選手時代、日本代表としても活躍した。日本石油の同僚である徳永耕治、若林重喜、小桧山雅仁とともに出場した92年のバルセロナオリンピックでは全試合に出場し、攻守で銅メダル獲得に貢献した。ただ本人いわく「たまたま代表に選んでもらいましたが、私よりパワーやスピードがある選手はたくさんいた」。それでも日本代表になった。坂口は「なぜ選ばれたのか、チームから何を求められているのか、ということを考え、自分の立ち位置を踏まえた上でプレーしました」と言う。

 都市対抗の本戦同様、負ければ終わりのトーナメント形式のオリンピックでは、明大時代に培ったものも役立った。

「競った試合で力を発揮する“すべ”、ですね。大学での4年間、御大こと、島岡吉郎(元)監督の下でたくさんのことを学びましたが、これを養えたのは、社会人でプレーする上で大きな財産になりました」

 バルセロナオリンピックでは、山中正竹監督(現・アジア野球連盟副会長)からの忘れられないひと言があった。

「『これからの野球界を背負っていくのは君たちだよ』と。その言葉通り、当時青学大の小久保裕紀は侍ジャパン野球日本代表の監督になりましたし、十河章浩は社会人野球の強豪・日本生命の監督(2015年の都市対抗、日本選手権優勝)と、バルセロナオリンピックの日本代表の中には、後に野球界を支えていく人材が多かった。もしかすると、そういう選手を中心に選んだのかもしれませんね」

 坂口は00年限りで社会人チームのユニフォームを脱いだ後も、03年のIBAFワールドカップをはじめ、数々の国際大会で日本代表のコーチを歴任。現在は東京2020組織委員会の会場運営担当部長という要職にあるが、坂口は今も『野球人』であり続ける。


PROFILE
さかぐち・ひろゆき◎1965年8月2日生まれ。宮崎県出身。高鍋高では3年夏、右翼手で甲子園出場。明大では1年秋よりリーグ戦に出場し、2年秋は外野手でベストナイン。4年時は主将を務めた。卒業後、日本石油に入社し、4年目からは主将となり、93年の都市対抗をはじめ、日本選手権、スポニチ大会でも優勝を果たす。92年バルセロナオリンピックでは全試合に出場し銅メダル獲得に貢献。94年限りで現役を引退し、97年から監督に就任。2000年まで指揮を執り、99年には8強に導いた。社業に専念してからも数々の国際大会で日本代表のコーチを歴任。06年からはNHKの高校野球の解説者を務める。現在は東京2020組織委員会の大会運営局・会場運営担当部長。

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング