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プロ野球20世紀・不屈の物語

プロ1年目、巨人・江川卓の“四面楚歌”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜81年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ヒールとなった“怪物”



 1980年代はプロ野球、特に巨人戦テレビ中継の黄金時代だった。平均視聴率も最高視聴率も、ともに83年がピーク。球場へ足を運ぶのが難しいファンも、夢中でテレビにかじりつき、お茶の間からプロ野球に声援を送っていた。お茶の間がリビングやダイニングになっているのかもしれないが、この2020年も、すくなくとも当面は、プロ野球の観戦はテレビが主流になってきそうだ。

 いまはツールも多様で、巨人戦に限定されることもなさそうだが、当時は全国ネットで放映されるのは巨人戦が圧倒的であり、プロ野球に接する貴重な手段でもあった。これは同時に、プロ野球ファンでない人も巨人戦に接する機会が多かったということでもある。江川卓は、そんな時代の中心にいた。プロ野球は知らなくても江川のことは知っている、そんな人も多かった時代だ。江川は21世紀となってからも解説者として抜群の知名度を誇り、当時もCMにも出演して笑顔を見せたりもしていたから、明るいキャラクターの印象も強い。ただ、そのプロ1年目は、まさに茨の道にいて、表情も険しかった。

 その剛速球で知名度は高校時代から全国区。大学でも圧倒的なポテンシャルを発揮して、誰もプロでの活躍を疑わないような“怪物”だった。77年のドラフトでは、あこがれの巨人ではなく、クラウンライター(現在の西武。当時の本拠地は福岡)が1位で指名、これを「九州は遠い」と拒否。このときは、まだ多くの人が、江川の夢がかなって、巨人へ入団してほしいと思っていただろう。

 だが、78年11月21日、ドラフトの前日に設けられていた、いわゆる“空白の1日”を突いて、巨人が江川と契約。当時の野球協約が抜け穴だらけだったことも事実だが、今風にいえば“脱法”的な巨人の暴走は、当然だが、大騒動に発展した。巨人はドラフトをボイコットして、江川は阪神が1位で指名。結局、江川は阪神へ入団してから小林繁とのトレードで巨人へ移籍、という異例の形に事態は不時着した。

 この間、黙々と自主トレを続けた江川だったが、世間ではルールを無視して思いどおりに物事を進めることが「エガワる」と言われ、流行語にも。巨人もさることながら、江川も完全に世間を敵に回してしまった。不協和音は巨人のチーム内にも広がる。「キャンプで江川くんと同室になったら?」という、やや意地悪な質問をぶつけられた王貞治が「ま、できれば避けてほしい」とポロリ。どんな騒動であれ、それを歓迎する人はいないだろうが、球界のリーダー的な存在であり、人を不快にさせる発言のない王でさえ、この騒動に対する不快感を隠すことができずにいた。才能の塊のような若者は、まさに四面楚歌の中で、プロとしてのキャリアをスタートさせる。

笑わない江川


 巨人への入団を果たしたとはいえ、江川は開幕まで謹慎、巨人は2カ月間、江川の一軍登録を自粛した。“解禁”は6月2日。その舞台は後楽園球場、そして相手は因縁の阪神だった。マウンドで、まず客席に頭を下げた江川だったが、打線が4点を援護するも、スタントン、若菜嘉晴ラインバックと3本塁打を浴び、5失点で撃沈。最終的には9勝に終わる。

 だが、伝説として語り継がれる長嶋茂雄監督の“地獄の伊東キャンプ”を経て迎えた80年は開幕投手を任され、16勝を挙げて最多勝。219奪三振もリーグ最多で、防御率2.48はリーグ2位だった。因縁と騒がれた小林繁の投げ合いでは176球を投げ抜く完投勝利。「人生最大の勝負という気で投げた。ここで負けたら、ずっと僕は小林さんの下になる」という江川の言葉からは、この約2年間、江川だけが味わってきた“地獄”も垣間見えた。

 江川に笑顔が戻ったのは翌81年。いまでは信じられないが、「江川が笑った」ことが騒ぎになるほどだった。大学時代から親しかった原辰徳の入団が江川を変えたといわれる。そんな81年、江川は20勝、221奪三振、防御率2.29で、いずれもキャリアハイであり、リーグトップ。巨人も4年ぶりリーグ優勝、その立役者として江川はMVPに輝き、日本シリーズでは胴上げ投手にもなっている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM


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