歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 首に痛みが出てから打撃は良くなる?
20世紀を知らない若いファンでも、広島の前田智徳をリアルタイムで見たことがある人は多いだろう。プロ24年目となる2013年までプレーを続け、晩年は代打の切り札として活躍していたが、20世紀のプロ野球も幼心に残っている、といった世代のファンなら、故障に苦しみながらも自らの打撃を追い求める不屈の姿を強く印象に残しているかもしれない。
21世紀の前田は、すでにベテランの域にあり、年齢を重ねたことで求道的な“サムライ”になっていったと思う若い人もいる気がする。実際、若い頃はヤンチャだったが、ベテランになるにつれて円熟味が出てきて、求道者の雰囲気をまとう選手も多い。ただ、前田の場合は、むしろ逆。20世紀の前田は、すでに求道的な“サムライ”でありながらも、なんとも尖った若者であり、当時を知る決して若いとは言えないファンには、21世紀の前田は「丸くなった」ようにも見えたものだ。
熊本工高では3度、甲子園に出場。時代は離れているが、
巨人の“打撃の神様”
川上哲治の後輩にあたる。同じ九州に本拠地を移したダイエーを希望していたが、ドラフト4位で広島に指名され、1990年に入団。翌91年には初めて規定打席に到達、外野手としては最年少の20歳でゴールデン・グラブ賞にも選ばれ、リーグ優勝に貢献した。以来、皮肉にも広島は長く優勝から遠ざかるが、前田の打撃は着実に進化を遂げていく。
その翌91年には初の全試合出場、そして初の打率3割。オフには「いまの野球は、明るくやる、というのが主流です。自分はどうしても、そういうタイプではありません。野球の技を先行させながら目立っていきたいという昔型の人間です」と語っている。感情を隠すこともなかった。喜怒哀楽のすべてではない。たいていが、怒と哀。特に怒りの感情は、ほかの誰かではなく、自らに向いた。本塁打を放っても、納得できる当たりでなければ、いかにも不機嫌な顔でダイヤモンドを回る。凡退しようものならヘルメットを叩きつけた。壊したヘルメットも数えきれないだろう。
93年には首位打者を争って、リーグ4位の打率.317。首位打者を逃したのは、巨人戦での不振も大きかった。いや、正確には不振ではない。体が自然に反応して、本能のまま打つ。そんな打撃を追い求めた結果だった。「頑固すぎたのかもしれない。巨人の攻めは分かっていたから、狙い球を絞れば数字は出たでしょうね」と語る。そして、すでに首、右ワキ腹、右アキレス腱など満身創痍。あまりにもハードな練習が故障する原因のひとつでもあった。「首に痛みが出てから打撃はよくなる」とも言っていたが……。
プロ6年目の悪夢
本塁打も追い求めた。「僕が(シーズン)30本を打てる打者になるなんて誰が思いますか。僕は不可能を可能にしたいんです」と語っていたが、四番打者も任された94年はリーグ2位の打率.321と前年を上回りながら、27本塁打から20本塁打と減らしてしまう。「自分の能力を考えれば、打率にこだわったほうがよかった。レフト方向にヒットを打ち、塁に出れば盗塁。そのほうが長持ちしたかもしれない。でも、僕はホームランが打ちたかったんです」と前田。打撃の追求はとどまることを知らず、練習量も増えていく。翌95年は開幕から右アキレス腱痛に苦しんだ。登録抹消もあり、休養が最善の選択だったのだろう。だが、5月23日の
ヤクルト戦(神宮)で、ついに断裂。そのままシーズンを棒に振った。
92年9月13日の巨人戦(東京ドーム)で、守備でミスをした後に本塁打で挽回したものの「ミスが悔しくて涙が出た。ホームランを打ってもミスは消えない」と語ったこともあった。「あの日、自分は負けたんです」とも振り返る。打撃に注目が集まりがちだが、ストイックな姿勢は野球のすべてに対して貫かれていたことが分かる。だが、アキレス腱を断裂してからも故障が続いた。守備や走塁への影響は隠せず、しばしば「もう俺は終わったよ」と言っていたというが、それまで野球に向かっていた前田の全身全霊は、しだいに打撃へと特化されていく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM キャンペーンページ:
DAZN2ヶ月無料キャンペーン