週刊ベースボールONLINE

震災10年「3.11」をずっと忘れない

【被災地と甲子園】東北高(宮城県)・元総監督が回想する2011年 給水所で送られたエール

 

前年の東北大会を制した東北高は、満を持して2011年のセンバツが開催される甲子園に向かうつもりだった。その直前に発生した未曾有の大被害。出場に二の足を踏むナインの力になったのは、苦しいはずの地域住民だった。10年前、東北高の総監督を務めていた武内充さんが震災、そして甲子園での光景を振り返る。
取材・文=高橋昌江 写真=BBM

大会前の甲子園練習。一時は出場も危ぶまれる状況だったが、何とか甲子園の土を踏むことができた


即席の壮行会で見送られ


 2011年3月19日の午後。センバツに出場する東北高の野球部員たちは、学校から700メートルほどのところにある仙台市立館中にいた。

「甲子園に何度か連れて行ってもらいましたけど、あのときくらい感動したシーンはなかったですね」

 当時、東北高の総監督兼寮監だった武内充さんは今から10年前の光景を鮮やかに覚えている。

「私たちはこんなときに甲子園に行くということで、『大袈裟に出発するわけにはいかない』と辞退したんですよ。でも、地域の方は『給水所を空けられないのでぜひ、館中に寄ってから出発してください』と言う。それで、寄らせてもらったんです。そしたら、地域の人たちがね、段ボールにメッセージを書いて、見送りしてくれた。高校野球というのは常に地域とともにあり、地域の代表だと私は思っていますので、本当にうれしかったですね。あのときはまだ、『甲子園に行っていいんだろうか』という思いもありましたが、応援してもらったおかげで吹っ切れました」

 この8日前、のちに「東日本大震災」と命名された未曾有の大災害が発生した。2日ほどの避難所生活も経験しながら、東北高の部員たちは学校がある館地区や寮がある南中山地区で給水活動などを手伝っていた。野球も甲子園も考えられない状況下で、1回戦最後のカード(大会第6日第1試合)に組まれ、その後、大会への参加が決定。仙台空港は津波で被災しており、山形空港から関西入りすることになった。

 ベンチ入りメンバー18人と補助部員5人らはひっそりと発つはずが、地域住民からの要望で、その日の午前中まで給水活動をしていた館中へ。すると、即席の壮行会が開かれた。<頑張れ日本><負けるな東北><被災地に元気を>といった文字が並ぶ段ボールを持つ、部員らと同い年くらいの女の子たち。その後ろにずらりと並ぶ地域住民。

「頑張れー、頑張れー、東北!」
「勝つぞー、勝つぞー、東北!」

 約500人のエールと拍手で東北高ナインは送り出されたのだった。

開会式で入場行進に臨む選手たち。被災地からの出場で、スタンドからは一際大きな拍手が送られた


経験したことのない揺れ


 前年秋の東北大会。永遠のライバル・仙台育英高や青森山田高、光星学院高(現八戸学院光星高)などを破り、東北高は3年ぶりの頂点に立っていた。武内さんは「私にとっては奇跡的な勝利でした」と振り返る。

「10個も20個もエラーをするようなチームで、県大会はヨレヨレの状態。まさか東北大会で優勝するなんて、びっくり。そういう状況で選んでもらい、子どもたちも私も楽しみにしていました」

 19回目のセンバツに向け、調整も最終段階。関西入りまであと3日に迫った3月11日。東北高は泉キャンパスの野球場で練習していた。ぬかるむグラウンドでは打撃練習を、隣接する室内練習場ではバッテリーがキャッチボールを行っていた。

 午後2時46分、地震発生。

 誰も体感したことがない大きな揺れ。室内練習場にいた選手たちはやっとの思いで外へ。このとき、当時の五十嵐征彦監督(現校長)ら教員の指導者は職員会議で校舎にいた。練習に付いていた武内さんは「一番、安全なところはグラウンドの中心部分だと感じた」と、セカンドベース付近に部員を集めた。

「そこから見える鉄筋コンクリートの校舎が波打っている。今までも何度か大きな地震は経験しましたが、過去と比べものにならない。よく倒れなかったなと思いますよ。私が初めて経験したくらいの大きさだから、子どもたちもびっくりしたでしょうね。もう、ひたすら、揺れが収まることを祈っていましたよ」

 日常は一変した。電気、ガス、水道といったライフラインは機能を失った。「プールの水を汲(く)んでトイレに使ったりしていましたが、私たちもそれをお借りしていた状況でした」と武内さん。学校と寮がある地域で力を発揮した。

 選手を実家に帰す選択肢もあったが、ガソリンスタンドに長蛇の列ができている現状や交通事情、それぞれの家庭の状況などを考慮し、とどまらせていた。そんな中、心配なのは食事だったが、食堂には2、3日分の備蓄はあった。余震がひどく、避難所となっていた寮の向かいの南中山中で夜を過ごした日もあった。

 その間、選手たちは家族と連絡を取り、無事を確認していったが、石巻市出身の部員は家族と連絡がつかなかった。「石巻まで行ってみようか、という話にもなりましたが、あのとき、行くとなってもねぇ……」と武内さん。東北高の泉キャンパスは、仙台市北西部の山林地帯を開発した閑静な住宅街にある。

「学校の周りで建物の倒壊などがなかったため、それはよかったと思っていたら、ニュースを聞くと津波が発生したと言っている。それで『あ! 津波なんだ!』と。私たちの地域では津波が起こっているなんて、考えもしませんでした」

 巨大津波は沿岸部を別世界に変えていた。丘陵地では想像できないことだった。

「ラジオでニュースを聞くたびに、野球どころじゃないよなという感じになっていきました。部員の家族の安否を確認できないうちは、甲子園というわけにはいかない。家族の中に一人でも犠牲になられた方がおられたら、甲子園どころじゃないというのが私たちの考え方。東北高の出場の判断基準は、部員のご家族が無事であることでした」

仙台空港は使えず、山形空港から空路大阪入りした東北高ナイン。神妙な表情を崩すことはなかった


 自宅が流失したり、知人を亡くしたりした部員がいた。誰も気持ちの整理はついていないが、石巻市出身の部員の家族が無事だと分かり、出場を決断。メンバーらは山形空港に向かう途中、天童市で震災後、初めての風呂に入った。生活面を考え、残った部員は実家に帰省させたが、福島第一原発事故の影響で帰れない南相馬市出身の部員など、3人は武内さんと自炊で寮生活を継続。地域の手伝いをしながら、出発までの日々を過ごした。

変わらぬ白球を追う姿


「たくさんの人が集まってくれて、応援してくれた。あんな光景も初めて見ましたよ」

 3月28日、大垣日大高との初戦。アルプススタンドは東北高ナインを応援しようと集まった人々で埋まった。兵庫県内17校476人の友情応援もあった。逆に関係者は少なく、部員の家族はほとんどいない。

 試合は、8回まで散発2安打に抑えられていた打線が9回、2安打でチャンスを作ったが、得点はできず。0対7でゲームセットとなった。

「精いっぱいやった結果でしたね。甲子園に行って、試合ができたことに感謝ですよ」

兵庫県内の高校生による友情応援を受け、9回に意地を見せたものの、大垣日大高に完敗を喫した


 激動の日々に一つの終止符を打ち、仙台に戻った東北高は沿岸部のボランティア活動に励んだ。受けた応援に恩返しするため、夏も甲子園に戻ろうと戦ったが、準決勝で敗退した。

 11年以降、東北高のセンバツ出場はない。夏は16年に出場したが、初戦敗退。この10年間で指導スタッフも代わっているが、甲子園への思いを持った選手たちが白球を追う姿は今も、これからも変わらない。

 震災当時、61歳だった武内さんは15年夏で指導を退き、定年退職。現在は熊本県で生活している。

「熊本でも高校野球をしょっちゅう見に行っていましたよ。(新型コロナで)野球を見られなかった昨年は寂しかったですね。中止せざるを得なかったのはしょうがないですが、高校野球って、なくちゃならないものですよね。無事に開催されるということがどんなに多くの人に楽しみや勇気を与えてくれるか、再確認しましたね」

 高校野球の意義をちょっと立ち止まって考える。春は、そんな季節でもあるのかもしれない。

地元・宮城に戻ってからは再びボランティア活動に従事。夏の甲子園出場へ向けて練習にも励んだが、あと一歩及ばなかった

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング