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シリーズ「沖縄と野球」

目を見張る早さで県民的娯楽に――沖縄と野球の歴史/シリーズ「沖縄と野球」

 

4年ぶりの名球会オールスター戦が沖縄で開催される。沖縄本土復帰50周年、那覇市市制100周年の記念でもある名球会ベースボールクラシック2022沖縄開催を機にあらためて沖縄と野球の、歴史や関係について掘り下げる連載コラム。第1回のテーマは「沖縄と野球の歴史」だ。

首里高が県勢として初めて全国高校野球選手権に出場したのが1958年の第40回大会。甲子園の土を持ち帰ろうとしたが検疫で引っかかり、海に捨てられたエピソードは有名だ


 今年で、野球が日本に伝来してちょうど150年を迎える。1872(明治5)年に第一大学区第一番中学(現在の東京大)の教師として来日した米国人のホーレス・ウィルソンが学生に手ほどきしたのが起源とされており、学校のあった東京都千代田区の学士会館の敷地内には2003(平成15)年に建立された「日本野球発祥の地」の記念碑が建てられている。この地から野球が日本全国へと波及していくこととなった。

 その野球が沖縄に伝わったのは1894(明治27)年のこと。沖縄県尋常中学校(のちの一中で現在の首里高)の生徒らが初めて京阪地方への修学旅行を実施し、そのときに京都の第三高等学校(現在の京都大)へ訪れた際、野球を教わったという。これが、沖縄のおける野球との出合いとなった。ボールやグラブといった用具をもらい受けた生徒たちは、学校の運動場が狭かったことから真和志村(後に真和志市→那覇市に編入)にあった日本陸軍の練兵場で野球を楽しみ、同年に催された秋の運動会において県内初となる公開試合を実施している。このとき、ユニフォームはなく自前のシャツとズボンを履き、スネに巻く脚絆と地下足袋でプレー。捕手だけがミットをはめ、そのほかの選手は素手であったという。

 さらに1903(明治36)年には初の対外試合、かつ国際試合も行っている。太平洋を航行中だった米国海軍艦が食料と飲料水などの補給のため那覇に寄港。息抜きで首里城に訪れた際、野球を嗜む学生の姿を見つけたのを機に県を通して試合を申し込み、後日、第4代・奈良原繁沖縄県知事も見守る中、尋常中学校の生徒と米艦乗務員によるいわば「日米野球」が開催されたのである。ただ日本チームが使用した用具は上質とは言い難く、バットは農機具を扱う店から借りた鍬の柄だったり、ミットにも似たグラブを内野手だけがはめて、外野手は素手だったという。試合は22対6でやはり米国側の大勝に終わったが、点の奪い合いとなったことは善戦したという見方もできよう。

 一中を中心に栄えた野球文化は明治から大正にかけ、二中(現在の那覇高)や商業学校(現在の那覇商)など他校にも波及し、その卒業生がクラブや実業団を結成するなど沖縄の野球人口は増加の一途をたどる。1921(大正10)年に、初の本土遠征となる鹿児島での南九州中学野球大会に一中が参加した際、あれよあれよの快進撃で一気に頂点に上り詰め、那覇港でナインの帰還を待つ県民に盛大に迎えられたという。

 このように沖縄野球のスタートは存外古く、楽しみが少なかった時代において目を見張る早さで県民的娯楽として成していった。例え道具がなくとも工夫して繕いながら一球を追う楽しさ、はたまた応援する楽しさを覚えてきた沖縄県民にとって、野球は紛うことなき身近な存在である。そのアイデンティティは、その後の暗い時代を超えて今なお県民に息づいている。

 伝来から一世紀余り、沖縄と野球はどのような関係性をたどっていったのか。時代をさかのぼりながら、今後数回に分けてお伝えする。

文=仲本兼進 写真=BBM

「名球会ベースボールクラシック沖縄2022」
日時:2022年12月10日(土)13:00
会場:沖縄セルラースタジアム那覇
中継放送・配信:OTV沖縄テレビ放送、全国インターネット配信(予定)

【入場券発売】
先行発売:10月28日(金)12:00〜
一般発売:11月5日(土)10:00〜
当日券販売:12月10日(土)10:00〜

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