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プロ野球助っ人ベストヒット50

ランディ・バース 「オンボロバス」から2年連続三冠王に駆け上がった“神様・仏様・バース様”/プロ野球助っ人ベストヒット50

 

ホーナーの赤鬼旋風からゲッツ! のラミちゃんまで、よみがえる懐かしの外国人選手たち。地上波テレビの野球中継で観ていた愛しの外国人50選手のさまざまなエピソードを描いた『プロ野球助っ人ベストヒット50』(ベースボール・マガジン社)が好評発売中だ。今回はランディ・バースが野球殿堂入りしたのを記念して、史上最強の助っ人を描いた章を特別に公開する。

骨折で出遅れ、夫人はホームシックに……


史上最強の助っ人と称されたバース


「アイツをスタメンで使うとロクな試合にならん」

 83年5月3日、「七番・右翼」でスタメンもこの日もノーヒットに終わった阪神タイガースの新助っ人に対して、後楽園球場の記者席ではそんな辛辣な言葉が飛び交っていた。アメリカ時代は「ロサンゼルスで打ってニューヨークに届く」と称された左の大砲という前評判だったのが、オープン戦で死球を受けて左手首尺骨の骨折で離脱。夫人は日本の生活に慣れずホームシックとなり一時帰国した。4月下旬に戦列復帰もヒットすらまったく打てず、気の早い関西マスコミからは早くも「オンボロバス」なんて不要論が囁かれる始末で、安藤統男監督は「みなさん(報道陣は)どうしてそう5試合や6試合くらいでダメ外人と決めつけるの。結論をそう急がせないでよ」と嘆いた。先発メンバーに名前を連ねるとチームは勝てない“疫病神”とまで嫌われた背番号44に初安打が出たのは開幕16打席目、初アーチは23打席目のことだった。それが、ランディ・バースの日本でのキャリアの始まりである。

 のちの“神様”はウチの球団に来る可能性もあった―――。プロ野球の元国際スカウトの著書において、バースネタは鉄板だ。大リーグの一線級投手の速球には弱いが、選球眼がよく、変化球打ちが巧みでメジャー通算9本塁打。フェンスは越えないが、フェンス際まで飛ばす「ウォーニング・トラック・フライ・ボール・ヒッター」で知られていた。一方で、守れるのは一塁のみでヒザを痛めており外野守備は論外、幼少時の複雑骨折の影響で足も遅い。つまり、典型的な大リーグでは厳しいが日本の投手や狭い球場に合う選手というわけだ。80年代前半から、ヤクルト中日といった各球団の獲得候補に度々その名前があがった。

 大リーグ5球団を渡り歩いていたバース本人は、日本の野球のことはなにも知らなかったが、3Aクラスの2倍の年俸を出してくれるというので阪神入りを決断する。建設現場で働く父の手伝いで、1日5ドルの小遣いのために重いブロックを持ち上げて鍛えた腕力には自信があったが、マイナーリーグでは1ケ月500ドルの給料で、6ケ月プレーしても3000ドルにしかならない。オフにパイプ製造会社に勤めてアルバイトをする稼ぎの方がはるかに良かったぐらいだ。『週刊ベースボール』85年6月17日号の独占インタビューでは来日理由について、本音でこう語っている。

「ハッキリいおう。金さ。タイガースに入る前のチーム(レンジャーズ)では自分は活躍の場はなかったからね。そこへ、タイガースからの話があったわけなんだ」

 年俸2500万円が当時28歳のバースには大金だった。日本式の練習はきつかったが、マイナー生活が長かったので我慢はできた。とは言っても、慣れない外野起用には「レフトは無理だ」なんて監督に泣きつき、さらに妻のホームシックは深刻で、早くも5月頃には「契約金を返して故郷に帰ろう」と決断しかけるが、英語が堪能な岡田彰布夫人がケアをしてくれて踏み止まった。

 前半戦は打率2割3分台に9本塁打。そのシーズン限りと思われたが、球宴後20試合で11本塁打の固め打ち。終盤には25試合連続安打の球団新記録と一気に巻き返す。終わってみれば、リーグトップとわずか1本差の35本塁打と大砲としては上々の数字で1年目を終えた。

85年の猛虎フィーバーで史上最強助っ人に


85年、日本一となったチームでバースは三冠王に輝いた[左は同年、三冠王となったロッテ・落合]


 趣味は競馬と釣りだが、日本文化に興味を示しロッカールームで将棋にも挑戦してチームに馴染み、きつねうどんと豆腐を食べて試合に臨んだ。アメリカ時代は典型的なプルヒッターだったが、並木輝男打撃コーチから逆方向へ打つことを意識するようにレクチャーされ、クリーンアップを組む掛布雅之の下半身の使い方も参考にした。2年目の後半戦には甲子園特有の浜風を味方につけたレフトへの長打が増え出し、不安視された一塁守備も実はショートバウンドの処理には定評があった。84年はリーグ4位の打率.326を残すも、夏場に実父が亡くなり1ケ月ほどチームを離れ、阪神も4位。残した成績のわりにフルシーズン出場できていなかったバースの評価は決して高いものではなく、その去就も流動的だったが、翌85年にあの伝説のシーズンを迎えることになる。

 開幕直後はまったく打てず、15打数2安打6三振のスランプ。開幕カードの広島戦後には本多達也通訳に泣きつき、深夜タクシーをチャーターさせ神戸の自宅まで逃げ帰った。そんな傷心の背番号44のシーズン第1号は、4月17日巨人戦で槙原寛己から甲子園のバックスクリーンへ放った逆転3ラン……そう、今も語り継がれるバース・掛布・岡田のバックスクリーン三連発である。これで勢いに乗ると5試合連続アーチで、阪神は4月22日に8年ぶりの単独首位に躍り出る。狂熱の猛虎フィーバーの幕開けだった。

 バースは6月2日に打撃三部門のトップに立つと、打率は岡田、打点は巨人のクロマティと争いながら、三冠王レースとV争いを牽引する。3年目ですっかり日本野球に適応し、昨年まで愛用したルイビル製のスラッガーズ・バットから、長さ86.8センチ、重さ1キロの日本製バットに替え、日本人投手のクセを見抜き、球種を読んだ。スランプになると一発の意識を捨て、引きつけたコンパクトスイングだけを心がけて脱出する。初の球宴出場(前年は辞退)を果たした直後の7月31日中日戦(甲子園)では、自打球を左足甲に当て骨折してしまうが、たった2日でギプスを外し、欠場わずか4試合で復帰。その後5試合で11安打3ホーマーとケガも背番号44の快進撃を止めることはできなかった。

 7月に入ると広島が首位に立ち、阪神は追いかける展開に。8月には6連敗で3位転落も経験するが、日航機ジャンボ墜落事故で中埜肇球団社長が死去する悲しみに見舞われ、チームは再び団結。10月16日のヤクルト戦(神宮)で21年ぶりのリーグ制覇を達成した。その余韻が残る中、バースは日本記録の55号超えへ挑むも、最後は王貞治監督率いる巨人戦で江川卓以外の投手から勝負を避けられて、四球攻めにあい記録達成を逃す。それでも打率.350、54本塁打、134打点、OPS1.146という凄まじい成績で三冠王に輝いた(なお、ロッテの落合博満と史上初めて両リーグ三冠王誕生)。背番号44は長打率と出塁率もトップ。勝利打点22はブーマーの21を更新するプロ野球新記録だ。さらに日本シリーズでも史上初めて第1戦から3試合連続アーチを放ち、広岡西武を圧倒した。三冠王に加えて、ペナントとシリーズのダブルMVP受賞。表彰式で米国クライスラー社製の「ダッジ・デイトナ・ターボZ」を送られ、「日米経済摩擦解消にひと役」なんて報道も出たほどだ。こうして、2リーグ制後初の日本一達成を勝ち取った猛虎打線の中心に君臨するオクラホマ出身の男は、“神様”となった。

2年連続三冠王と悲しい別れ


「85年10月24日木曜日 対ジャイアンツ戦 後楽園。1の1。4回、歩かされる。情けない巨人軍の投手陣、ひとりもストライクを投げてこなかった。ガイジンだからか。6回の安打は、本気でホームランを狙ったのだったが……」

 これは当時バース本人がつけていた日記をまとめた『バースの日記。』(集英社)の記述である。友人でプロレスラーのスタン・ハンセンと交わした「外人選手は常にdo good(良くやる)でなければならないが、real good(凄く良くやる)となるとマズい」という言葉が出てくる。決してガイジンは日本人選手のグッドガイの影を薄くさせてはならないのだと。

 86年、年明けに阪神と新たな契約を交わしたバースはUSAトゥデー紙に3年6億5000万円の異例の大型契約とも報じられたが、本人も球団側も単年1億5000万円だと主張。故郷のオクラホマ州ロートンには広大な牧場を所有して、ジレットのCM出演でヒゲを剃り、神戸の住まいはマンションから高台にある鉄筋3階建の一軒家へ引っ越した。86年は第1号が開幕12試合目と出遅れるも、6月18日のヤクルト戦から26日の巨人戦まで7試合連続アーチ。王監督の目の前で江川から後楽園のライト場外弾を放ち、偉大なビッグワンの持つ日本記録に並んだ。さらに夏場には打率4割への挑戦とひとり別次元の打棒を見せ、プロ野球史上最高打率.389、47本塁打、109打点で2年連続の三冠王を獲得。四番掛布の故障離脱もあり、リーグ最多の82四球、18敬遠と勝負を避けられ、OPS1.258を記録した。

 まさに“史上最強の助っ人”の称号を手にしたバースだが、real goodスラッガーは完全に日本人選手から主役の座を奪い、不調でチームもV争いから遠ざかり、目立つのは三冠王ばかりという状況に陥ると、相手チームやマスコミは背番号44を徹底マークした。6月5日の試合前、バースは使用するバットに対して審判団から「打席に入る前に、バットの上方部分にすべり止めのスプレーをかけるのはルール違反」と警告を受けた。3日の試合中に巨人側から球審にクレームがついたのである。さらに『Number』や『週刊プレイボーイ』に掲載されたインタビュー形式の記事で、「吉田監督は本当にゲームに勝ちたいと思っているのかって悩んでしまうよ」なんて首脳陣批判をかまして、球団から罰金1万ドル(約150万円)の処分を言い渡された。友人のインタビュアーだったので世間話のつもりが、そのまま誌面に掲載されてしまったという。

 翌87年にバースが無冠に終わると、阪神は最下位に転落。そして、史上最強助っ人との別れは突然やってくる。88年5月上旬に愛息の病気治療のため帰国すると、その治療費を巡り保険に加入していなかった球団側と揉め、6月27日に国際電話で解雇を告げられたのだ。あの猛虎フィーバーからわずか3年後の出来事だった。こうして“神様”を自ら切った阪神は、長い暗黒期へと突入していくのである。

文=中溝康隆 写真=BBM


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【著者紹介】
中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
1979年埼玉県生まれ。ライター。2010年開設のブログ「プロ野球死亡遊戯」が話題に。『週刊ベースボールONLINE』の連載コラムを担当。「文春野球コラム2017」では巨人担当として初代日本一に輝く。著書には『プロ野球死亡遊戯』『原辰徳に憧れて』『令和の巨人軍』『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』など。

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