週刊ベースボールONLINE

『逃げてもええねん――弱くて強い男の哲学』より

坂口智隆「ピンチのときこそ楽しむ心を」――オリックス時代に大ケガから復活できたのは【第2回】

 

近鉄、オリックスヤクルトでプレーして、現在は野球評論家として活躍する坂口智隆さん。現役時代には「ケガに強い」「弱音を吐かない」武骨でストイックなイメージがありましたが、「本質は違います」とご本人。「こんな地味なプレーヤーの自分でも、20年プロ野球の世界で生きていけた」理由、考え方とは。6月に刊行された初の自著『逃げてもええねん――弱くて強い男の哲学』(ベースボール・マガジン社刊)より抜粋しご紹介します。今回は、人生のピンチのときの考え方。

野球人生最大の危機となる大ケガ


プロ10年目の12年。坂口はダイビングキャッチを見せたが、これが大きなケガに


 僕は決してプラス思考の性格ではありません。悩むときはとことん悩み抜く。一方で、「ピンチのときこそ楽しむ」精神を大事にしていました。

 今まで多くのケガに見舞われましたが、野球人生最大の危機を迎えた大ケガが、オリックス時代に「一番・センター」でスタメン出場した、12年5月17日の対巨人戦(東京ドーム)でした。初回の守備で無死一、三塁から坂本勇人の飛球をダイビングキャッチした際、体の下に右腕を巻き込む形で右肩を強打しました。

 打球を追っているときに「ギリギリ捕れるな」と思って飛び込んだのですが、(三塁に)走者がいたのでスッと投げることを意識したのがよくなかった。打球の角度を考えれば、捕って終わりでよかったのですが、送球のことが頭をよぎり、考え方が中途半端でした。

 ケガをしたことに後悔はないんですけどね。グラウンドに倒れ込んだあのとき、最初は「あばらが折れました」とトレーナーに伝えました。でも実際にあばらは折れていない。痛すぎて息ができなかったので勘違いしていたのです。

 痛みで意識が飛びそうでしたが、「さらしを巻いたらできるな」と思いました。応急処置をして試合に出続けるつもりでした。でも肩を見たら、ぐにゃぐにゃになって骨が浮いていて。力を入れることができないことに気づいたとき、「これはヤバい」と……。そのまま負傷退場して、都内の病院に向かいました。検査結果は右肩肩鎖(けんさ)関節の脱臼、靭帯(じんたい)断裂の大ケガでした。

万一引退しても「アウトだし美談やな」


 当時はレギュラーを獲って、27歳と選手として一番脂がのり切っている時期でした。チームを引っ張らなければいけない立場にもなり、試合に出る以上きっちり結果を残さなきゃいけない。そんな中、大ケガで長期離脱しなければいけない現実はショックでした。右肩は投げるほうだったし、完治するかもわからない。メチャメチャ悔しかったし、翌日にチームから離れて新幹線で大阪に帰るときも落ち込んで、食事さえとれなかった。

 右肩の状態に絶望してやめることばかり考えていましたが、2、3日経ったら考えが変わっていました。治らんし、治らんものは追っかけても仕方ないと。

 ケガはしましたけれど、あの打球を落とさず捕っていた。ケガをした場面が何度もテレビで流れていましたが、ファインプレーだったという見方もできる。チームに迷惑をかけたことは申し訳ないと思いましたが、「好捕してアウトにした」という意識を強く持つようにしました。

 これで万が一引退しても、あのプレーのケガが原因だといえる。「アウトだし美談やな」と勝手に自分で思い描いた。こんな大ケガから復活したらかっこいいし、これでアカンとなったら仕方ない。自分のやるべきことをやろうと。

 もちろん言葉にして周りに伝えたわけではありませんが、そう考えると、精神的に楽になる。僕は窮地に追い込まれたときに、逃げ道を絶対につくります。そうしたほうが楽に生きられるから。「ピンチを楽しむ」のも、その延長線の考え方だと思います。

俯瞰して物事を見る


 あのケガでリハビリに入ったのですが、野球だけでなく日常生活にも支障をきたしました。三角巾で右腕を固定しなければいけないので、右手が動かせない。リハビリ中はすべて左手を使っていました。箸をうまく使えず、食事の時間も遅くなる。お風呂で背中を洗うのが一番大変でした。左手だけでは厳しいので、浴室の壁につけた吸盤に石鹸をセットして、背中をくっつけて洗っていました。

 もちろんイライラするときもありました。今まで簡単にできていたことが、思うようにうまくできない。でもこういうときこそ健康のありがたみを感じる。ケガをしなければわからないことでした。

 右肩の回復は予定よりかなり遅れました。回復のペースを「何週間でここまで上げる」と計画していましたが、なかなか右肩の状態がよくならない。ただ、あせったり気持ちがふさぎ込んだりすることはなかった。

 どこか、俯瞰してこの状況を見ている「もう一人の自分」がいました。回復が遅れているということは、それだけケガの重大性が伝わるなと。「悲劇のヒーロー」ではないですが、そう考えたほうがリハビリのモチベーションも上がります。

ケガをして気づけた正確な送球の大切さ


 シーズン復帰は絶望と報じられていましたが、9月7日のウエスタン・リーグ・中日戦(北神戸)で戦列復帰しました。このときに右肩はまだ完全には治っていません。それでも試合に出場したのは自分の強い意思でした。

 キャッチボールは塁間を山なりで投げられるぐらいで、スライディングもできないので、復帰当初は打席に立つだけでした。シーズン終盤に差しかかり、試合に出続けてケガを治すことができると思って試合に出た。強行出場した理由はそれだけです。長期離脱でチームに迷惑をかけていましたしね。

「万全の状態に戻るまでリハビリに専念すべき」という考え方も理解できます。ただ、当時の僕は「試合に出られる状態なら出る」というシンプルな考えでした。痛みを抱えて試合に出ることを美談にするつもりはないですし、後輩にもすすめませんが、「この大ケガから復帰したらかっこいい」というレールをつくり、ピンチを楽しむ気持ちを持ち続けたからこそ、シーズン中に復帰できたのかもしれません。

 振り返ってみれば、この大ケガで多くを得られました。日常生活を不自由なく送れることのありがたみを再認識して、野球のプレーでも大切なことに気づきました。

 しっかり投げられるまで5年ほどもかかったことからわかるように、以前のような肩の強さを想定してプレーできない。ただ、僕はもともと球界を代表する強肩の外野手と比べれば見劣りする。肩の強さだけで走者を刺すプレースタイルから変える必要がありました。

 ケガをしたことで、強い球を投げられない分、捕っていかに早く送球できるか、コントロールには自信がありましたが、より正確に内野のカットマンに投げる技術を磨こうと意識するようになりました。ケガをして遠回りしたからこそ、早い時期に気づけました。

写真=BBM

■書籍『逃げてもええねん――弱くて強い男の哲学』ご購入はコチラから

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング