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惜別球人【NPBスカウト編】

池之上格(元ダイエー、阪神スカウト) 一期一会で得た縁 「スカウトを見れば、球団が分かる。看板を背負い、最前線に出ていた」

 

ダイエーで10年、阪神で15年スカウトを務め、2016年からは企画・編成担当、19年からは虎風荘の副寮長を歴任した。昨年限りで阪神を退団し、現役16年を含め、47年に及ぶプロ野球生活にピリオドを打った。スカウトとして築き上げた人脈は財産であり、これからも生き続ける。
(文中一部敬称略)

阪神は2003年のドラフト自由獲得枠で早大・鳥谷敬を獲得。同枠は有力選手が球団を選択する「逆指名」であり、スカウト力が問われる制度だった[右が池之上氏。左は東日本統括スカウトだった菊地敏幸氏]


 昨年11月26日。2019年から虎風荘の副寮長を務めていた池之上格は、阪神球団から「今季限りでの勇退」を言い渡された。公になった同29日以降、数え切れないほどの関係者から電話などが入り、労いの言葉をもらったという。同郷・鹿児島の後輩からの心温まるメッセージもあった。

川崎宗則(現BCL/栃木)からすぐに『お疲れさまでした』と連絡がありまして……。最後は、お決まりの『チェスト!』でした。ホークス時代から、ことあるたびに『池之上さんのおかげです』と発信してくれた律儀な男。一瞬でもかかわった選手から、そういった一言をもらえるのは、スカウト冥利に尽きます」

 川崎は鹿児島工高から1999年のドラフトで、ダイエーから4位指名を受けている。だが、同年11月19日のドラフト会議に池之上は出席していない。その直前、同年限りでの「契約解除」を通告されたのだった。

「当時は逆指名(93年から自由獲得枠、希望入団枠と2006年まで続く)の時代です。未来の有望選手を獲得するためには、投資が伴います。そして、入団後は回収をしなければならない。求められるのは、結果。球団代表からは『交渉事の失敗。格、アカンわ! クビや!』と。スカウトは、生ぬるい仕事ではなかった」

 川崎を担当した池之上は、指導者を通じ、最後に「球団には強く推薦する。練習しておけよ」と言い残した。

 スカウトとは、アマチュア球界から見れば、最もプロに近い存在である。つまり、球団という会社組織における営業担当としての「顔」を持つのだ。選手から見れば、父親のような存在。入団交渉、正式契約、入寮、新人合同自主トレ、キャンプインと、プロ1年目の身の回りをフォローしてくれる。川崎は、プロへの道を切り開いてくれた池之上への恩義を、ずっと忘れてはいなかった。

「スカウトを見れば、球団のカラーが分かるんです。チームの看板を背負い、現場の最前線に出ていました。義理と人情と思いやり。一期一会を大事にしてきました。誰と会うにしても一発目がある。その初対面から、いかにして次へとつないでいくかは、本人次第です。私は人との縁の積み重ねを、大切にしてきたつもりです」

ホークス10年で「全日本大学」を卒業


 鹿児島県屈指の進学校・鶴丸高から73年ドラフト3位で南海に入団。

「九州の担当スカウトは石川正二さん。当時60歳。私がタイガースで最後に獲得した植田海(近江高)のときが60歳だったんです。何かの縁か、と。最大の出会いは入団時、監督だった野村克也さんです。巨人のドジャース戦法に対して、考える野球の先駆者。穴吹義雄さんともに技術、精神面とプロとして生きていくための下地を教えていただきました」

鶴丸高[鹿児島]から73年ドラフト3位で、投手として南海入団。


 投手として通算2勝を挙げるも、80年には内野手に転向した。選手会長を2年務める人望があり、代打や内野のユーティリティープレーヤーとして活躍。86年限りで南海を自由契約となり、翌87年にテスト入団した横浜大洋では2年間プレーして現役を引退。大洋でのスコアラーを経て、90年から古巣・ホークスでスカウトに就任した。南海からダイエーへ、本拠地も大阪から福岡へ移転した、新生・ホークス2年目である。

「球団として、どういう方向を目指すのか、分岐点であったと思います」

80年には内野手に転向し、87年からは2年間、横浜大洋でプレー。ユーティリティープレーヤーとして活躍した


 90年の春季キャンプが、ターニングポイント。前年はハワイでキャンプを張ったが、湾岸戦争の影響により、90年は沖縄・読谷で行われた。この年にダイエー監督に就任した田淵幸一は法大OB。大学時代にバッテリーを組んだ1学年後輩の山中正竹(全日本野球協会会長)は、92年のバルセロナ五輪を控える日本代表監督を務めていた。山中が沖縄のキャンプ地を視察した際、田淵は「これからのことは、山中にすべて聞け!」と、池之上を紹介している。山中は大分県出身で、池之上とは同じ九州人として、馬が合った。

 当時の日本代表はオールアマチュアで編成。バルセロナ五輪は野球が初めて正式競技として採用された大会であり注目度、気運も高かった。

「全日本は人材の宝庫なんです。ここを張っておくことが必要。毎年、この代表チームから選手を獲得すれば10年が経てば、チームは変わる」

 池之上は定期的に開催された全日本合宿や大会に、すべて帯同した。ジャパンの現場には全日本アマチュア野球連盟・廣岡知男会長(東大OB)、日本高野連・牧野直隆会長(慶大OB)、日本野球連盟・山本英一郎会長(慶大OB)などアマチュア球界の重鎮が集まる。このほか高校、大学、社会人の指導者も集結する中で、日の丸を率いる山中を通じてネットワークを構築した。

 当初、ダイエーはバルセロナの本大会への視察を予定していなかった。メール、携帯もない時代である。池之上は、編成トップの球団本部長宛にリポート用紙5枚の手紙を書いた。

「チームを強くするためには、有力選手を獲得しないといけません。そのために、今日まで動いてきました。これを理解できない本部長は、編成部門の担当者としてはダメです」

 逆指名ドラフト。いかに、現場へ足を運び、関係者へ誠意を見せないといけない。選手はスカウトの動きを逐一、見ているもの。池之上の思いが球団に通じ、バルセロナ行きのチケットを手にしている。行く(投資)だけでは、ダメである。結果を残すことが追求される。池之上はのちに、ダイエーの中心選手となる小久保裕紀(現ソフトバンクヘッドコーチ)、井口資仁(現ロッテ監督)の獲得に成功。池之上はダイエーとして初のリーグ制覇を遂げた99年限りで退団しているが、のちの黄金時代の礎を築く。人脈の賜物だ。

「私は高卒でプロ入りし、スカウトになって初めて、世間を見ることになりました。ダイエーでの10年で『全日本大学』を卒業させてもらったと思っています。人生でかけがえのない縁を得ることができました」

選手以外にもタイガースに人を残した


 2000年は世界少年野球推進財団(WCBF)に勤務し、01年から阪神のスカウトに就任した。タイガースを率いていたのは就任3年目の野村監督。編成面の強化を図りたい球団の意向があり、池之上に白羽の矢が立ったのだ。この人事に際して、強く推したのが、野村監督だったという。

 就任初年度に自由獲得枠でトヨタ自動車・安藤優也、03年には早大・鳥谷敬、04年には大阪ガス・能見篤史を獲得。池之上が人脈、労力、熱意による手腕を発揮し、03、05年のリーグ優勝へとつなげた。上位指名以外にも池之上が担当した選手は現役引退後も球団に残っているケースが多い。野村氏の人生訓でもあるが、タイガースに人を残しているのだ。

 スカウト退任後は編成・企画部門で球団を支えた。18年には甲状腺乳頭がんを患い、約7時間の手術。神経を傷つけると声を失う危険性もあったが、無事であったのは何よりだ。

 昨季限りで野球界から一線を引き、1月からは運送・倉庫事業を展開する(株)SEHIROにシニアマネジャーして勤務。70人のドライバーとのグループLINEを通じた業務連絡で、安全に仕事を回す役職だ。一人ひとりのドライバーに対し、愛情を注いだメッセージを送信している。

「社訓は『ご縁に感謝』。NPB在籍は47年ですが、00年もプロ意識で1年を過ごしました。つまり、今年は49年目のプロの世界に挑みます。一日一生の思いで、置かれたポジションで死力を尽くし、花を咲かせる」

 66歳はいつまでも意欲が旺盛だ。得意(?)のダジャレで、職場のムードも明るくなっているに違いない。


PROFILE
いけのうえ・とおる●1954年5月19日生まれ。右投右打。鹿児島県出身。鶴丸高から73年ドラフト3位で投手として南海に入団。4年目に初勝利を挙げ、5年目にも1勝をマーク。80年に内野手に転向し、選手会長を2年務めた。87年に横浜大洋へ移籍し翌年引退。89年はスコアラー、90年からダイエースカウトとなり、99年限りで退団。2000年はWCBF(世界少年野球推進財団)に勤務し、01年から阪神スカウト。16年から企画・編成担当、19年から虎風荘の副寮長を歴任し、20年限りで退団。1月からは、物流企業の(株)SEHIRO(大阪府門真市)にシニアマネジャーとして勤務。NPB通算570試合、打率.269、15本塁打、97打点。

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