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ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ

中期連載ダンプ辻コラム 第40回「大洋の花の(あるいはおっさん)5人衆を知っていますか?」

 

大のビール党だった伊藤勲


ビールがなくなる?


 阪神から大洋に移った話になっていますが、僕が大洋に入った昭和50年(1975年)、同い年の5人衆というのがおったんですよ。昭和17年(1942年)と18年の早生まれの学年で、僕、江尻(江尻亮)、伊藤(伊藤勲)、米田(米田慶三郎)、松岡(松岡功祐)ですね。あの年は32か33歳になります。ちなみに5人衆というのは、自分らで言ってただけです。当時は30歳過ぎたらベテランと言われたので、陰で“おっさん5人衆”とか言われていたかもしれんですね(笑)。でも、いまは巨人の坂本(坂本勇人)やマー君(田中将大)が32歳でしょ。髪型とかの見た目もあるんでしょうが、昔と今では年齢の感覚が、5歳以上違う気がしますな。まあ、それを言ったら78歳の僕が、こうやってベーマガで連載していること自体、不思議ですけどね(笑)。

 江尻は早稲田大学出身の外野手で、入ったときはピッチャーでした。見た感じ、「この人、頭いいんだろうな」というのが感じられる、僕と逆のタイプで(笑)、詩や俳句もつくっていたそうです。話し方もなんか学術的でインテリっぽかったですね。

 投手出身だけに、肩は強かったですよ。阪神時代、これは楽々ヒットだろうと、ゆっくり走ってたら、ライトの江尻がガッと投げてきて、あわててダッシュしたことがある。あわやライトゴロです。江尻を見たら、カカカと笑っていました。選手時代からずっと大洋、横浜でやっていた人なんで、監督までやった後に突然ロッテに行ったのは、少しびっくりしましたね(95年)。

 伊藤は54年に南海に移籍したんで、一緒にやったのは4年間ですが、同じキャッチャーでした。体がすごく丈夫な人だったんですが、65歳と早く逝ってしまいましたね。

 あのときは僕と伊藤、福嶋(福嶋久晃)と一軍の捕手が3人でした。ビールが好きというか、ビールしか飲まん人で、キャンプに行くと旅館からビールがなくなるというウワサがあった(笑)。6畳くらいの部屋で飲むんですが、部屋の壁際に空き瓶を並べていたら、いつの間にか、それがグルリと1周し、その真ん中で飲んでいたことがあります。

 いつも白いテープを左手の親指に巻いていましたが、これは平松(平松政次)のシュートで親指を痛めたそうです。伊藤は間柴(間柴茂有)のナチュラルスライダーでも親指をやったことがあったな。左のスライダーは右のシュートと同じ変化ですが、真っすぐと思って構えていると、スライドするからミットで追って捕球するとポイントがずれ、親指を痛めやすいんですよ。僕は、変化が頭の中に入っていたから、スライドした後のほうに構えて捕った。これが僕のキャッチングのコツみたいなものです。ミットでボールを追うんじゃなく、来るんだから、そこで待ってポンと捕るです。どうです? 簡単なことに聞こえるかもしれませんが、キャッチャーをやってた人がいたら聞いてください。結構、難しいんです。

ヤケクソの遠投トレ


 5人衆ではなく年下ですが、ついでに間柴の話もしておきましょうか。昭和45年にプロ入りしたサウスポーで、よかったり悪かったりと波がある男でした。力のある球は投げていたのですが、さっき言ったスライドするボールが捕手に嫌がられ、直せ、直せ、と言われていました。

 僕は阪神時代に、同じようにナチュラルでスライドした古沢憲司の経験があった。あのときもみんなが直せ、直せと言っていましたが、僕は逆転の発想で、それを武器にさせた。しっかり意識して投げさせ、曲がらん真っすぐも覚えさせてね。間柴にも同じようにやっていたら、3カ月もしないうちにインコースに意識して投げられるようになった。外に曲がらない、すっといく真っすぐをマスターしてからは右バッターも苦にしなくなりました。ただ、よし、これからだなと思ったら日本ハムに行っちゃって、優勝した年(1981年)に15連勝くらいしたんじゃないですか。大洋にしたら、もったいないことをしたと思います。

 ヨネちゃん(米田)は山下大輔の前のショートで守備が本当にうまかった。股関節が柔らかくて、捕った姿勢で動ける。派手じゃないけど、玄人が見ると「おや、これは」と思う選手でした。引退した後もコーチで一緒にやり、ユニフォームを脱いでからも少年野球教室を一緒にやってました。

 あのときの大洋の内野はサードがボイヤーで、セカンドがシピン。ボイヤーの守備はうまかったですよ。この人も股関節が柔らかくて、ぐっと落として捕る。守備範囲は広くなかったけど、エラーはほとんどしなかったと思います。

 シピンは送球ですね。手首が強くて、下からガッと投げても浮かび上がってくるんですよ。打ち方も独特のスイングでね。打球が下からぐ〜んと伸びていく。いつもヒゲ面で「ライオン丸」と言われていた選手です。

 最後の松岡は、5人の中で一番元気な男です。大洋のコーチの後、中国に行ったり、明大のコーチをしたり、中日の寮長をしたりしていた。やっとのんびりするのかと思ったら、故郷の熊本で、またユニフォームを着るらしい(独立リーグ/火の国サラマンダーズ)。ほんと感心します。

 松岡で覚えているのは土井(土井淳)さんが監督になった昭和56、57年のどちらかで、僕の肩がつぶれたんですよ。もう40歳近い年齢もありました。治療しても休ませてもどうしようもなかったので、松岡にメサのキャンプ(アリゾナ)で長距離のキャッチボールの相手を頼んだんですよ。

 逆療法ですね。もう半分ヤケクソでガンガン投げていたんですが、1日目は痛くてたまらんかったけど、2日目は少しずつ痛みが和らぎ、肩回りの可動域が広くなったのか、以前のようにびゅんびゅんと行くようになった。松岡に「ようやったね、ダンプちゃん。ご苦労さん。頑張って」と言われたときは、もう感謝感激でした。僕が42歳まで現役でできたのも、このときがあってこそだと思いますよ。

PROFILE
辻恭彦(つじ・やすひこ)●1942年6月18日生まれ。愛知県出身。享栄商高から西濃運輸を経て62年夏阪神入団。75年大洋に移籍し、84年引退。その後、大洋、阪神、横浜のコーチを歴任した。通算974試合、418安打、44本塁打、163打点、打率.209。ダンプの愛称は同姓の捕手・辻佳紀がいたためでもある。

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