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第21回 42勝をマークした西鉄・稲尾和久 vs 情けない他チーム|「対決」で振り返るプロ野球史

 

杉浦、堀本、権藤、そして、近鉄の勝ち星を上回った稲尾


42勝を挙げた61年の稲尾(左)と中西


 1960年を挟んだ前後1年は、プロ野球の歴史の中でも、飛び抜けて重要な3年だったと言えるだろう。60年は、第20回でお伝えしたように、三原脩監督率いる大洋が最下位から一気に優勝。第20回では触れなかったが、大毎との日本シリーズでも4連勝で初の日本一。すべて1点差の無敗4勝は、57年の西鉄-巨人日本シリーズの再現だった。前年の南海-巨人シリーズでは、南海・杉浦忠が4連投4連勝の離れワザ。2度の屈辱を味わわされた巨人が、川上哲治監督となった61年、ベロビーチ・キャンプで“ドジャースの戦法”を学び6年ぶりの日本一と、ドラマチックな3シーズン。

 個人でも、59年は、杉浦が38勝4敗というアンビリーバブルなピッチング。60年、巨人のルーキー・堀本律雄が29勝の新人最多勝記録を作ると、翌61年、中日権藤博が35勝をマークしてあっさり記録を更新。しかも、429回1/3という2リーグ分立後では最多となる驚くべき投球回数を記録。このスーパー投手を苦もなく打ち込んだのが、4年目を迎えた巨人・長嶋茂雄。対権藤の打率が.448。長嶋はこの年、自己最高打率の.353をマーク、史上初の3年連続首位打者となった。また、最後の本塁打王のタイトルも獲得した(28本)。

 しかし、何と言ってもこの3年間の個人の数字では、61年、西鉄・稲尾和久がプロ野球史上最多タイの42勝をマークしたことがトップニュースだろう。この年のパ・リーグ最下位近鉄の勝ち星が36(103敗1分)で稲尾1人に及ばなかったことを思えば、稲尾の42勝は、凄絶と言ってよいほどの恐るべき数字であることが分かってもらえるだろう。杉浦、権藤、稲尾らの、人間離れした投球に対して“エース残酷物語”の表現が使われたものだった。今回はその稲尾の42勝に焦点を当てる。

 稲尾は4月9日の近鉄戦で完封スタート。4月は5勝1敗と飛ばした。そして、5月も5勝2敗。さらに6月は飛ばしに飛ばして7勝無敗。これだけ馬力をかければ、もうバテが来るものだが、稲尾は夏場の7、8月も勝ち続ける。7月6勝3敗、8月7勝2敗。ここでもう30勝!

 稲尾の勢いは止まらず9月7勝4敗、10月5勝2敗で、42勝(14敗)となった。これは巨人・スタルヒン(39年)と並ぶシーズン最多勝記録。稲尾のすごいところは、先発、中継ぎ、抑えと出番は自由自在。当時はその記録はなかったが、現在の規定を当てはめると、この間11セーブ。まあ、しかし、よく投げたものである(404回)。

 登板78試合(チーム140試合の半分以上)のうち先発は30試合であとはリリーフ。当時の西鉄・川崎徳次監督は、「勝てる!」となったら、ためらわず稲尾を投入した。とにかく、ほかの投手に信頼がおけない(と川崎監督は判断したのだろう)のだから仕方がない。稲尾が7月16日に20勝に到達したとき、西鉄のほかの投手の合計勝ち星が19。「神様、仏様、稲尾……」は、実はこのシーズンにこそふさわしかったのである。

スライダーが完成の域に。「もう1人の稲尾」が指示出す


61年の南海6回戦での稲尾。この年優勝の南海から11勝をマーク


 56〜58年の3連覇当時は、島原幸雄河村英文西村貞朗らの20勝できる投手がほかにいたのだが、61年は稲尾にオンブにダッコ。これでは稲尾が近鉄1チームを上回る勝ち星を挙げても、チームがV戦線に浮上するのは難しい。この年、西鉄は3位に終わった。稲尾はチームの81勝の半数以上を稼いだのだが、これはやはり、異常な形だった。

 それにしても、他チームも、気前よく稲尾に白星をプレゼントしたものだが、36勝しかできなかった近鉄監督の千葉茂は、80年代になっても、つい昨日のことのように、興奮口調でまくし立てた。いわく「主力打者たちがな、稲尾が投げる日に限って熱が出た、腹が痛い、休ませてくれとぬかしよるのや。稲尾が来たら4タコに決まっとるから、打率を下げたくないんやな。あきれ果てて怒る気にもなれんかった」と怒っていたものだ。

 相手が初めから逃げ腰では勝負にならない。近鉄はこの年、稲尾に1勝6敗。案外負けてない?これは杉浦忠に聞いた話だが、当時の南海・鶴岡一人監督は「お前は優勝のために強いチーム相手に投げるんや。弱いチーム相手に勝っても仕方ないやろ」と言い続けたという。「近鉄や阪急にもっと投げたかったなあ。あ、これは半分冗談だけど」と杉浦は笑った。何でもかんでも勝ちに行く川崎監督といえども、やはり、稲尾は、上位の南海、東映戦で力投してもらいたかったのである。稲尾は、優勝した南海に11勝2敗!東映には意外に苦戦して、5勝6敗の負け越し。東映は、水原茂監督の1年目。あの3度の日本シリーズで、稲尾の手の内は知っていると、東映ナインに自信を持たせた結果だとは言えないか。川崎監督は巨人の後輩。対西鉄戦は徹底した上から目線で戦ったと思われるのだ。

 稲尾自身は、この61年に、あのスライダーが、ほぼ完成の域に達したと言っている。いつでもスライダーでカウントを稼げたとも。30勝をしたころだが、もう1人の稲尾和久が自分の頭の上にいて、このもう1人が、指示を出してくれたという。天才野球人にはこういう話がよくあるのだが、稲尾の場合は、自分を客観視でき、常に冷静でいられたということなのだろう。熱くなってきたらもう1人の自分がブレーキをかける。それにしても、42勝という数字はやはり異常だった。こんな時代はもう絶対来ないのだが、それだけに“投手残酷物語”の主人公たちのことは、永久に語り続けられることだろう。

文=大内隆雄

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