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【時代を変えた若者たち】1992年新庄剛志(阪神)の場合

 

スタートは鮮烈。ただ、当初は一緒に飛び出した亀山努の陰に隠れた印象もあった。本領発揮はシンカメ(カメシン)・ブームが終わってからだ。

背番号63時代の新庄


ファンの心をわしづかみにした男


 最初からスポットライトを浴びていたわけではない。

 ドラフト5位、甲子園出場もなし。ソリの入った角刈りで挑んだ入団会見では、「僕はサッカーが好きだったんで、プロ野球はあまり興味がなかったんです」と言って、周囲をあぜんとさせている。

 1年目の90年、二軍でも打率.074。それでも柏原純一コーチとのマンツーマンで打撃を磨き、着実に力をつける。当時は外野手だったが、秋季キャンプに視察に来た、OBで伝説の遊撃手・吉田義男氏が「あの身体能力はショートに向いている」とコーチに勧め、内野手に転向。実際、瞬発力、握力、背筋力などの数値はずば抜けていた。

 翌91年終盤一軍へ。初打席でヒット、打点も、その後、バットでの見せ場はほとんどない。ただ、極端に深いショートの守備位置にみんな驚いた。待ち味である強肩をアピールしようという計算だった。

 3年目の92年、二軍から始まり、5月に入って一軍昇格。直後、三塁手だったオマリーのケガで26日の大洋戦(甲子園)で初スタメンに抜てきされた。ここでいきなり初打席の初球を決勝弾となるホームラン。その後も勝負強く、思い切りのいいバッティングで12試合連続ヒットと頭角を現したが、オマリーの復帰後、ショートに回ると、堅守を誇る久慈照嘉がいたこともあり、出番が減り、輝きは薄れていった。

 真のブレークは、中村勝広監督がセンターで起用し始めてからだ。不動のレギュラーとなり、五番も打った。真っ赤なリストバンド、サラサラヘアーの甘いマスクは、これまでの阪神にあった“おっさん臭”の欠片もなかった。もちろん見た目だけではない。躍動感あふれるプレーが虎ファンの心をわしづかみにし、ハッスルプレーで、一足早くブレークしていた亀山努と“カメシン・コンビ”あるいは“シンカメ・コンビ”と呼ばれ、大フィーバーを巻き起こす。当時の記事を見ると、ファンレターが1週間に1000通以上来た、とあった。

 この年、チームも長い暗黒時代から抜け出す大躍進で、9月13日には首位に立った。16日の広島戦(甲子園)では、新庄が鮮やかなダイビングキャッチとサヨナラ弾。この時点では優勝秒読みとも言われたが、以後急失速し、2位タイに終わった。

 93年、背番号を63から5にした新庄は、故障で伸び悩んだ亀山から“一本立ち”。いつしか“虎のプリンス”と呼ばれるようになった。ただ、打率は、ほとんど2割5分前後。引退騒動や珍発言で、グラウンド外で騒がれることもあった。それでも阪神だけでなく、メジャー、日本復帰の日本ハムでも、しっかりプレーでインパクトを残し、2006年、チームの日本一を花道に引退。球界を離れた。

 現役終盤の新庄、いやSHINJOについて“トリックスター”と形容したことがある。語意は「神話や民話などに登場する、機知に富むいたずら者、善悪や賢愚を兼ね備えた超自然的な存在」。天真爛漫の自然体でありながら頑固で繊細、楽しそうにプレーしながらも陰の努力も人一倍にしていた。まあ、要は、つかみどころのない選手だった。

 92年、熱烈な阪神ファンという知り合いの女性は、いつも姉と一緒にラジオで阪神戦の中継を聴いていた(巨人戦以外のテレビ中継は、ほとんどなかった時代だ)。2人にとって新庄は、長い低迷時代の中で、ようやく見つけた、まばゆい星の1つだった。

 ある試合で、新庄が大活躍をし、お立ち台に呼ばれた。2人はラジオのボリュームを上げ、じっと耳を澄ませた。「えーっと……」。どんな質問かはよく覚えていないらしいが、そんな第一声の後、

「真っ白な球をバシーンと打ちました!」

 2人は、ラジオに向かって大きな拍手をした。2人が思い浮かべていた新庄は、白い歯をキラリと光らせた笑顔だった。(井口)

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