片岡のフォーム。どうです、個性的でしょ
三番打者にぴったりの男
前回の話は、僕のプロ24年目、1992年の話でした。チームの若返りの方針もあって、
中日にいた78年以来だったんですが、100試合以上の出場ができなかった年です(98試合)。寂しかったけど、それは仕方がない。割り切って自分に与えられた仕事を100%、いや120%以上やろうと思っていました。
この92年に、鳴り物入りで
日本ハムに入ったのが、
片岡篤史です。
右投げ左打ちの大型三塁手で、1年目から規定打席に到達し打率.290、新人王争いもしていました。
彼のバッティングで一番いいところは選球眼です。若いころはそれほどじゃなかったんですが、僕が監督になった2000年は、リーグ最多の101四球を選んでいます。ムチャクチャしぶといバッターでした。
ただ、四番バッターのタイプではなかったですね。体は大きかったんですが、ものすごく飛ばすかと言えばそうでもないし、ものすごく勝負強いかと言ったら、そこまでじゃなかった。出塁率が高く、ここぞの場面での意外性の一発もあり、「監督・大島」としては三番バッターが適任だなと思っていました。
フォームは独特。がに股で、腰をぐっと落としてから、足を高く上げてのスイング。考えてみれば、当時の日本ハムは、けっこうフォームが個性的な選手がいましたね。ガッツこと
小笠原道大は、構えたとき、バットを大きく神主みたいに突き上げてのフルスイングでした。
ただ、どれもこれも理には適っていました。片岡のがに股は、重心を落とし、下半身を安定させるためだし、ガッツの大きなフォームは、ふところを深くしようということです。
片岡は、バッティング自体は多少波のあるタイプではありました。足を大きく上げ、タイミングの取り方が大きな選手は、スランプからなかなか抜けられない傾向があります。怖い顔はしていましたが、すごくマジメなヤツだったので、なおさらでしょう。
ただ、そんなにあれこれと打撃の指導をしたことは、現役時代も監督時代もなかったです。あいつは自分で考えて行動できるタイプでしたから、ほっといてもいつかは調子が上がるだろうと思っていました。
それにPL学園高時代に身につけたものなのか、打てないなりにフォアボールを選んだり、犠飛を打ったりと、なんとかしてくれるタイプだったこともあります。あとはサードの守りですね。華麗とは言わないけど、すごく堅実だった。使う側からすると、安心できますから、多少バッティングが調子を落としていても使おう、になりました。
あいつとは、よく飲みにも行きました。そのあたりは僕と似ているんですが、年齢が上の監督、コーチと自然に付き合えるところがありました。媚びるんじゃなく、すっと懐に入る、というんですかね。
キャンプの休日前とかも、僕が飲みに行こうとすると目ざとく見つけ、「監督、どこに行くんですか。一緒に行っていいですか」と。僕が「いいぞ。○○にいるからいつでも来い」と言うと、何だか分からないけど、7人くらい連れてきて、あとはワーッと大騒ぎです。最後はみんな、これも何だか分からないけど、上半身裸になって大騒ぎしていたこともあります。
そんなとき、僕はいつも中日時代監督だった
近藤貞雄さんに言われたのと同じことを言いました。
「いくら騒いでもいいけど、俺の1分前には宿舎に帰れよ」
時代は、繰り返します。
ただ、あいつがいたお陰で、ふつうだったら、一緒に酒なんか飲まないはずの若い連中と腹を割って話せたのはよかった。あいつの中にも、そういう考えはあったと思いますよ。いままで、日本ハムは選手と監督の年齢差もあって、少し壁みたいなものがあったのは確かですしね。
記憶がなくなった……
ただ、片岡は僕の監督2年目、2001年オフにFA権を行使し、結局、
星野仙一さんが監督だった
阪神に行くことになりました。
戦力的には痛いですよ。交換トレードじゃないから「三番・サード」がポンと抜けるわけです。球団には、お金が入ってくるんでしょうが、別に僕らの給料がそのまま上がるわけでもないですしね。
でも、僕はあいつを引き留めなかった。自分で選んだことですし、それを僕がとやかく言うことはないと思ったからです。
交渉真っただ中のとき、あいつが「いまから家に行っていいですか。話があります」と電話してきたことがあります。多分、移籍を決めて、そのあいさつをしたいんだろうな、と思ったけど、僕は「来なくていいよ」って言ったんです。怒ったり、すねたりしたわけじゃないですよ。決めたんだから、それでいいだろと思っただけです。
でも、あんまりしつこいから「いいよ」と言って、すき焼きを用意して待っていたんです。どうせなら美味しいものを食べて門出を祝おうかなって。そしたらあいつ、スーツを着て、怖い顔をしてやってきて、最初はずっと黙ってた。
仕方ないから、すき焼きを食べながら、ガンガン、家にあったワインを飲んでいました。要は、阪神に気持ちが一気に向かってはいたけど、迷いもあったらしいですね。僕が監督なのに出ていいのか、仲間たちを裏切ることにならないか、と。それで亡くなったお父さんが「大島さんに決めてもらえ」と言ったらしい。
僕は「寂しいが、違うチームから欲しいと言ってもらえる選手になれたのだから素晴らしいことじゃないか。頑張ってこい」と言いました。強がりじゃなく本音です。
以前も書きましたが、僕が日本ハムに行くときも、そういう考え方をしたし、
牛島和彦が
ロッテに移籍するときも同じことを言いました。なのに、自分が監督になったら「困るから出るな」なんて言えないでしょ。あの夜、途中からのことは、まったく覚えてません……。
ナオミさんによると、「俺、ほんとは行きたくないけど行きます、すいません!」「いいんだ、何も言うな。とにかく頑張れ」みたいなことを2人でずっと繰り返していたらしいですね。片岡はもう号泣状態で。
翌朝、起きたら、家にたくさん置いてあったワインが全部カラ。ナオミさんもあきれてました。
もしかしたら、日本ハムにいたほうが長く現役をできたかもしれないけど、星野さんのために戦い、あの熱狂的な甲子園の声援を受け、優勝を2度も経験し、いまも阪神のコーチをしていますから、いい移籍だったんじゃないですかね。
話を92年に戻しますが、9月には通算1000四球も達成しました。史上13人目だったらしいです。やっぱり1000と言われたらすごいですよね。要はバットにボールも当てず、1000回出塁したわけですから。前回書いた2500試合出場もそうですが、長くやっていると、いろいろな記録が出てきます。
シーズン終了前に、ダイエーの
門田博光さんの引退の知らせも届きました。この知らせを聞いた直後の話が、週べに載っていたらしく、マイ担当のさかもっちゃんが持ってきてくれました。かいつまんで書くと、こんな話です。
僕が試合前練習でティーを5球だけで止めたらしい。それで記者に「どうしたんですか」と聞かれると、「いいんだよ、これまで何十万回、何百万回と振っていたんですから、4、5回で終わっても大丈夫なんだよ」と言ったらしい。
さかもっちゃんには「深い言葉ですね」と言われ、僕も「そうだろ」と言っていましたが、言ったこと自体、覚えてないし、どういう心境でいったのかも覚えてません。
ただ、やっぱりさびしかったですね。当時は、不惑の星と言われた門田さんの頑張りを励みにしていたところもありましたから。
僕が10月で42歳だったんですが、門田さんが引退したことで、ついに球界最年長になってしまいました。