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ヤクルト・松本直樹 重圧を力に 「プロ野球選手になりたいって言ったことは、たぶんない」

 

チームを勝利に導くのは、捕手として、出番を得た者としての役目だと考える。決して“野球エリート”ではなかったが、その経験が、「自分よりもチーム」という思いを強くした。
文=菊田康彦(スポーツライター) 写真=桜井ひとし、BBM

昨年9月6日の巨人戦(神宮)で、初めて最初から最後までマスクをかぶって勝利した


 打席には阿部慎之助(現巨人二軍監督)、アウトカウントはあと一つ。

 2019年9月6日の巨人戦(神宮)。ヤクルト入団2年目の松本直樹は、初めてマスクをかぶったままゲームセットを迎えようとしていた。

 リードは3点。真ん中低め、152キロのストレートを阿部が打ち上げると、ホームベース上空に高々と舞い上がった打球は、少し風に流されながらも、マスクを外して待ち構えていた松本のミットに収まった。

「初めて初回から9回まで守って勝ったんで、あの試合は心に残ってます。それまではスタメンで出て勝っていても、大体どこかで代えられてたんで、あの試合は印象に残ってますね」

 打っては2安打、1打点。マルチヒットも打点も、これがプロに入って初めてだったが、松本は「自分の中で一番満足感があるのが、チームの勝利なんですよ。自分が(ヒットを)何本打ったとか、何個盗塁を刺したっていうよりも、チームが勝つのが一番、達成感があるんです」と語る。

 扇の要たる捕手としては、大事な心構えだろう。それは「プロ野球選手になる道筋からはかなり外れている」という野球人生の中で、培われたものだ。

「僕はプロ野球選手になりたいって言ったことは、たぶんないです。なれるわけがないと思ってました」

 松本はそう言って、自身のこれまでの野球人生を振り返る。香川県坂出市で過ごした幼少期は、野球どころか、スポーツともほとんど縁がなかったという。

「野球の『や』の字もなかったですね。僕はもともとめちゃくちゃ細くて、どちらかというと病弱で、虚弱体質なほうだったんです」

 そんな松本少年が野球を始めたのは、小学校で一緒に登下校していた親友が、地元の金山野球スポーツ少年団に入ったから。ポジションは捕手。趣味でソフトボールをしていた父親がキャッチャーだったため「その流れでやらされて」と苦笑する。

 香川大教育学部付属坂出中に進んだのも、その親友が受験すると言い出したからだった。投手の彼と、中学でもバッテリーを組むことを思い描いていたが、親友はまさかの不合格。「流れで」野球部に入部したものの、国立大付属中学とあってあくまでも勉強中心であり、部活動は放課後にせいぜい1時間程度だったという。

 そこに赴任してきたのが、のちに高松商高を監督として3度の甲子園出場に導く長尾健司氏。限られた練習時間の中、効率を重視する長尾監督の指導で四国大会準優勝を飾るなど、付属坂出中は四国でも一目を置かれる存在となっていった。

 将来は「両親が教師だったんで、ぼんやりとですけど教師に」と考えていたという松本も、強豪中の正捕手として注目され、私立の野球名門高からも声が掛かるようになる。それになびくことなく、香川でもトップクラスの進学校である丸亀高に進んだのには理由があった。

 一つは「親の意見もあったんですけど、僕自身も野球で食べていけるわけはないと思っていたので」。もう一つは──。

「そこの中学は大体みんな丸亀高校に行くんですよ。それで、その仲間たちと一緒に『私立高校を倒して甲子園に行きたいよね』っていう話になって、丸亀に進学したんです」

 親友と一緒にいたいという理由で野球を始め、その後は半ば惰性で続けてきたところもあった松本にとっても「甲子園」は特別だった。

「『野球愛』というか『甲子園愛』です(笑)。一生の思い出になりますし、本当に甲子園に行きたかったんです」

 仲間と目指した夢の舞台は、目の前まで近づいた。3年夏の香川大会決勝。1点を巡る攻防は、無死一、二塁のピンチでバント処理を焦った松本の悪送球もあり、一方的な展開となってしまう。

「あのエラーは今でも思い出します。勝ちたいという気持ちが空回りしちゃいましたね。(三塁に)投げないほうがいいタイミングで投げてしまって、しかも悪送球ですから……。あの場面は忘れられないです。夢にも出てきますね」

 英明高の左腕エース、松本竜也(元巨人)の前に打線も封じ込まれ、0対8と完敗。甲子園への道はあと一歩のところで閉ざされた。ただし──。「本当に出たかったです。でも、甲子園に出てたら、今は野球をしてなかったと思います。たぶんそこで燃え尽きてたと思うので」

丸亀高3年夏の2011年、香川大会決勝で敗れて甲子園出場はならず(写真は2年春の四国大会)


 最後の夏が終わりを告げても、松本には高野連が行う日米親善試合が待っていた。四国選抜メンバーとしてハワイに遠征し、帰国してみれば早8月下旬。完全に受験モードの周囲に大きく後れを取っていると感じ、とっておきの“武器”を使おうと決めた。

「評定が良かったんです。性格的に1年間浪人しても真面目に勉強すると思えなかったんで、指定校推薦を使って大学に行こうと思いました」

 どうせなら東京、どうせなら六大学。どうせなら野球も続けてみよう──。そう考えて選んだのが立大。同じ新入生には、松本が出られなかった前年夏の甲子園で、捕手として日大三高を優勝に導いた鈴木貴弘(現JR東日本マネジャー)がいた。

 その秋の新人戦。早大との3位決定戦で、それまで先発していた鈴木に代わってスタメン起用された松本は、初めて立った神宮の打席でホームランを打つ。

「あれで大塚(大塚淳人)監督が期待してるって言ってくれて、僕も『このままレギュラーでいけるやろ』っていう軽い考えでやってたんです。そこからうまくプレーもできなかったんですけど、ちょっと傲慢になっていたというか……。自分の未熟さを棚に上げて、常に周りのせいにしてる感じでした。今考えたら情けないなと思います」

 リーグ戦での出場機会のないまま、2年生になっても練習に身が入らず、3年生になると「このまま野球部にいても仕方ない」と、一度は退部する決心までしたという。そんな松本を翻意させたのは、野球部の仲間たち。同じ寮生の励ましは、すさんだ心を変えていった。

「朝の5時から練習に誘ってくれる同級生もいて、それでちょっとずつ大人になっていったというか……。野球と真摯に向き合うようになったのは、そのころからでした」

 初めてリーグ戦に出場したのは3年秋。4年秋には3試合のフル出場を含む9試合に出場するが、大学時代は通算22打席(20打数)ノーヒット。公式戦では1本の安打も打つことなく、神宮を去ることになった。

立大時代は控え捕手の位置づけ。リーグ戦でヒットを放つことはできなかった


「野球選手としては良くなかったし、4年間をムダにしたなと思いますけど、人間的にはかなり成長させてもらいました。あそこで挫折を味わったことで、人としては他人に優しくなることができましたし、補欠というか、レギュラーじゃない人の気持ちも分かるようになりました」

 いつ、どこで途切れていてもおかしくなかった松本の野球人生は、ここでも運命に導かれるようにつながっていく。一時は一般就職を考えていたが、周囲の勧めで練習に参加して、誘いを受けていた社会人野球の西濃運輸に入社。しかし、待っていたのは茨の道だった。当時、西濃運輸の正捕手は14年に都市対抗優勝に導いた森智仁。入社早々、オープン戦で結果を残した松本は、その森を差し置いてレギュラーで起用される。

「日本一になったキャッチャーから出場機会を回されるっていうのは、本当にプレッシャーでしたし、その人の出場機会を松本に渡すのかっていうチームの空気も感じました。『松本で大丈夫かよ』みたいな空気は、絶対にあったと思うんですよ」

 そんな空気を変えるには、結果を出すしかない──。これが野球人としての松本を、大きく成長させることになる。

「プレッシャーがあった分、練習に身が入ったというか。自分がちゃんとしないと会社の人に申し訳ないですし、前にレギュラーだった人にも申し訳ない。僕を使ってくれた監督やコーチにも申し訳ないと思ったんで、プレッシャーだろうが何だろうがやるしかないと思って、そのときは無我夢中でやってました」

 入社1年目、都市対抗出場を決めた東海地区2次予選、第5代表決定戦。最後の打者をセカンドゴロに打ち取り、一塁へカバーリングに走りながらゲームセットになった瞬間、呪縛のようなプレッシャーから解き放たれ、思わずその場で泣き崩れたという。

「僕が試合に出ていいんかっていう雰囲気の中、ずっと寝ずに相手の研究もして、試合前もずっとえずいてるような状況の中で、都市対抗出場を決めることができて……。安堵感で泣き崩れて、立てないぐらいだったんです。あの光景は良い思い出として、覚えてますね」

 都市対抗本選では1回戦で“猛打賞”、準々決勝ではダメ押しの2ランを放つなど、ベスト8進出に貢献。翌年も2年連続で都市対抗出場を果たし、持ち前の強肩でプロからも注目されるようになる。

西濃運輸では1年目から正捕手の座をつかんだ。巧みな守備で、一躍ドラフト候補に


「そのときはプロに行きたいとはまったく思ってなかったんですよ。とにかくチームが勝てばいいって、そればかり思ってたんで。2年目の都市対抗のときは開会式の前日に熱が出て、ぶっつけ本番で全然打てなかったんです。それでもチームが勝てばいいと思ってましたし、その気持ちは今でも持ってます。キャッチャーとしてのこだわりは、そこですね」

 その秋、「本当に選ばれるとは思ってなかった」というドラフトでヤクルトから7位で指名され、かつては「恥ずかしくて」夢として語ることすらできなかったプロの道へ。

「捕手としての守備力はアマチュア球界No.1。セカンドスローは1秒8。スローイングの精度も高く、正捕手として期待」というのがスカウト評だった。

 プロ1年目は大半をファームで過ごしたが、2年目の19年は捕手としては中村悠平に次ぐ29試合(先発21試合)に出場。8月24日の阪神戦では「子どものころから見てきた」という能見篤史から、大学時代には公式戦で1本もヒットを打てなかった神宮で、プロ初安打を記録した。

 さらに、9月22日には自身にとって「中学生のときに初めてサインをもらったプロ野球選手」という三輪正義(現球団広報)の引退セレモニーが予定されていた巨人戦で、プロ初ホームラン。それでも「印象に残って」いるのは、初めてフル出場でチームが勝利した、冒頭の巨人戦だった。

 新型コロナ禍の影響で開幕が大幅に遅れた今シーズン。中村、そして楽天から加入した嶋基宏がケガで相次いで戦列を離れても、松本の出番はなかなか訪れなかった。7月12日に初の一軍昇格も、出場のないまま16日に抹消。8月6日の広島戦(神宮)で西田明央が不調を訴えたことで、翌日の一軍練習に呼ばれたが、登録には至らなかった。

「去年は(一軍で)けっこう試合に出してもらって、今年は出れていないのは、まだまだ自分に足りないものがあるんだと思ってます。今は(コロナ禍による)自粛期間から根気強く取り組んできたことを継続して、それなりにレベルアップできてる実感はあります。チャンスが来たときにそれを発揮できるように、準備をしたり、努力することが大事かなと思ってます」

 そう言ってファームで雌伏の時を過ごしていた松本に、一軍から声が掛かったのは9月10日のことだった。8月下旬に復帰したばかりの中村が、プレー中のケガで再び離脱したことを受けての昇格だった。

 シーズンもすでに後半戦。社会人出身3年目の松本には、個人としての結果も求められるが、その頭にあるのはただ一つ、「チームの勝利」のみ。それこそが挫折を味わい、プレッシャーとも戦ってきた野球人生で培われた、キャッチャーとしてのこだわりである。チームがどんな状況にあろうとも、それだけは決して変わることはない。

今はただただ懸命にレベルアップに励み、出番を待っている/写真=桜井ひとし


PROFILE
まつもと・なおき●1993年10月17日生まれ(27歳)。177cm82kg。右投右打。香川県出身。丸亀高-立大-西濃運輸-ヤクルト18(7)=3年

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