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巨人・坂本勇人 伝統の継承者 「想像していた以上にファンの皆さんが期待をしてくれていた。あの雰囲気というのは、一生忘れないと思います」

 

2007年のデビューから14年、ついに節目の大記録に到達した。キャプテンとしてもチームをリーグ連覇へけん引。名実ともにジャイアンツの顔となった伝統の継承者の、知られざるストーリー。
文=福島定一(スポーツライター) 写真=榎本郁也、小山真司、BBM


コロナ禍の偉業達成


 待ち焦がれた瞬間が訪れた。坂本勇人の通算2000安打に、コロナ禍の球場からは歓声の代わりに温かい拍手が注がれる。偉業達成に敵味方は関係ない。ヤクルトファンが陣取る左翼スタンドからも同じように背番号6に惜しみない拍手が送られた。

「朝、起きてから食欲もなくて、今日一日緊張していたんですけど、1打席目にヒットが出てくれました。僕が想像していた以上に、球場のファンの皆さんが期待をしてくれていたので。あの雰囲気というのは、一生忘れないと思います。ここまで支えてくださった監督、コーチ、チームメート、チームスタッフ、ファンの皆さんに本当に感謝しています」

 11月8日のヤクルト戦。場所は本拠地・東京ドームだった。通算2000安打まで残り1本で迎えた一戦で、球場にはいつも以上に坂本のグッズを手にしたファンが目立った。打席に向かうだけ、守備に就くだけで、携帯カメラのシャッター音があちこちで鳴る。両手を合わせ祈るファン。タオルで口元を覆い、いまにも泣きそうな表情で見守る者もいた。球場は、異様な緊張感に包まれていた。

 迎えた1打席目。カウント1ボール2ストライクからの4球目だった。外角に逃げるように変化する128キロのスライダーをバットがとらえる。下半身でしっかりと粘り、泳がされることはない。最後は左手一本で巻き込むように、左翼線にライナー性の打球を運んだ。行方を確認し、表情を緩めながら二塁ベースに到達した坂本は、両手を頭上の上で何度も叩いた。ナインはベンチ前に並び、ガッツポーズをつくって拍手。原辰徳監督や首脳陣もベンチ前に整列し、偉業達成を称えた。

 試合は一時中断。巨人からは中島宏之、ヤクルトからは親交の深い山田哲人が花束を持ち坂本のもとへ駆け寄る。プロ野球史上53人目、球団の生え抜き選手の2000安打達成は川上哲治長嶋茂雄王貞治柴田勲阿部慎之助に次ぐ6人目。31歳10カ月での到達は、1968年の榎本喜八(東京)の31歳7カ月に次ぐ年少記録となり、右打者に限れば、77年の土井正博(クラウン)の33歳6カ月を抜く史上最年少での達成となった。坂本への拍手はいつまでも鳴り止まない。

「坂本勇人選手 2000安打達成」──。東京ドームの電光掲示板も燦然(さんぜん)と輝いていた。



 2006年9月25日。のちに球史に名を刻む少年がプロ入りを果たした。高校生ドラフト1巡目指名で堂上直倫(当時愛工大名電高、現中日)の抽選を外した巨人が、外れ1位で光星学院高の内野手だった坂本の交渉権を獲得する。授業中に朗報を受け、教室は大騒ぎに。「夢だったプロ野球に指名されてうれしいです。4、5年後には(ホームランを)30本打てる選手になりたいです」。ライバルには巨人が抽選を外した堂上の名を挙げ「自分より上。同じショートで注目されているので負けないように頑張りたい」と負けん気の強さを見せた。

 同年12月の施設見学で川崎市内のジャイアンツ寮を訪れた坂本は、93年に入寮した松井秀喜(巨人、ヤンキースほか)が使用した410号室を与えられることとなる。「マジっすか。すごいバッターなので僕もああいう選手になりたいです」。報道陣に感想を問われると、高校生らしく素直な思いをそのまま口にした。“出世部屋”に入ることになった坂本は、松井が夜中まで素振りを繰り返したとされる伝説の「素振り部屋」も見学。すり切れた畳に驚きを隠せなかったこの少年が、後に松井に迫る球団のスターにまで成長するとは、このときはまだ知るよしもなかった。

最愛の母へ──


 前述のとおり、坂本の2000安打到達は、右打者では史上最速となった。ただ、本来は「左利き」だ。今でもサインを求められれば、ペンを左手に、右手で色紙を持つ。右投げ右打ちというイメージから「サインペンを右手に差し出されることが多いんですよね」と笑う。

 幼少期、もともとは左投げだったが、兄から右利き用のグラブを譲り受けたことが右投げへの“転向”の最大の理由。さらに、もう1つ、ここにはMLBで活躍する同学年の田中将大(現ヤンキースFA)が関係している。小学生時代に在籍した「昆陽里(こやのさと)タイガース」で2人はチームメート。バッテリーを組んでいた。そんな田中とよく本塁打競争を行った。目標は左翼側に構える小学校の校舎。方向から考えて引っ張って打てる右打者が有利だった。鼻っ柱の強かった坂本少年はどんなときでも負けず嫌い。そこでとっさにとった行動が右打席に入ることだった。これなら田中とも対等に競うことができる。利き腕の左で不慣れな右腕をリードする。ここに右投げ右打ちの坂本勇人は誕生した。

 中学までは地元の兵庫県で生活をしていたが、高校では甲子園出場を目指し、青森へ越境。進んだのは光星学院高(現在は八戸学院光星高)。「光星学院に行って良かった。本当に厳しい監督さんでした。その3年間で、野球人生が変わったなって。今でも頭が上がりません」。当然ながらその練習は厳しかった。1年生の年末年始を故郷で過ごし、再び高校に戻ると、坂本の耳と鼻には穴が空き、ピアスがキラリ。

「もうやめたいです」。金沢成奉監督(現在は明秀日立高監督)に願い出た。野球が大好きとはいえ、遊びたい盛りの高校生でもある。地元に帰り、久しぶりに顔を合わせた友人たちとの時間は楽しく、自由な友達をうらやましくも感じたのだろう。すべてを察した金沢監督は「やめたきゃ、やめろ!」と突き放した。その一方で、即座に父親に連絡。同級生にも話し、家族と友人からの説得を依頼した。その甲斐あってか、考えをあらため、退部届を取り下げ。「僕が野球をやめたいと思ったときに引き留めてくれた。一番に考えてやってくれたのが監督でした」。その後は襟を正して、人一倍努力し、練習に明け暮れていた。

光星学院高では四番・ショート。3年(2006年)春のセンバツに出場した


 最も汗を流したのは、意外にも3年夏を終えた引退後だという。野球に一区切りをつけた同級生らがお洒落に着飾り、遊び回る姿に目をやりながら、素振りやティー打撃を黙々とこなした。「プロに行きたい」という思いが、突き動かしていた。手のひらはマメだらけ。それまでは素振りは好まず、練習よりも試合で結果を残すタイプだったのだが、マメで覆われ、手のひらはより硬くなった。やんちゃな性格ではあるが、芯は強く、ぶれない。一度、覚悟を決めればとことん突き進んでいく。もともとの才能にひたむきな努力が重なり、3年時にドラフト指名。母校では今でも後輩たちが憧れる伝説の大先輩となった。

 プロ1年目の07年6月19日、癌のために母・輝美さんが他界した。同年5月12日のイースタン・リーグ日本ハム戦(姫路)に闘病中だった母を球場へ呼び、その第1打席で本塁打をプレゼント。2000安打達成後の会見では、誰に報告したいかと問われ「まずは両親に。今日は父親が来てくれていました。いい姿を見せられて良かったです。あとは母親にもオフになったら墓前に行って、2000本打ったと報告したい。(母親は)一軍で1本もヒットを打っている姿を見ないまま亡くなりました。小学生のころから一番、応援してくれたのは母です。どこかで2000本を見てくれているかなとは思います」と天国に語りかけている。

 最愛の母の他界から約1カ月後の7月12日の阪神戦(東京ドーム)で代走としてプロ初出場。ここからスターへの階段を駆け上がった。翌年は松井秀喜以来の10代での開幕スタメン(八番・セカンド)を勝ち取る。「スタメンで出られたら名前が残る。何とか1本打ちたい」。大抜擢を決めた原監督は「キャンプから長い時間をかけて、力でポジションを奪い取った」と力説し「一挙手、一投足の積み重ねが坂本の歴史になる。腰を据えて自分の野球をやってくれればいい」と送り出した。結果は3打数無安打に終わったが、試合後は報道陣の前で「打撃に、悪い感じはない」と前向き。コメントからも高卒2年目らしからぬ気持ちの強さが見えた。この試合の途中にショートのレギュラーだった二岡智宏が負傷、坂本がセカンドからポジションを変えるのだが、その二岡の復帰後もショートの定位置の座を譲ることはなく、セ・リーグ史上初の高卒2年目で全試合先発出場を果たしている。

新人年の07年9月6日の中日戦(ナゴヤドーム)、延長12回に代打で出場、高橋聡文からプロ初安打となる中前2点適時打を放つ。写真はその直前、原辰徳監督に何やら耳打ちされる坂本


手にした動じぬ強さ


 原監督の大胆起用に、坂本が応える形で始まった師弟のストーリー。指揮官は期待を寄せる一方で、厳しさも追求し、若武者を大人へと成長させていった。全試合先発出場を達成した翌年。開幕から好調を維持し、坂本は首位打者争いを演じていく。しかし、疲れの溜まる夏場の7月、14打席連続無安打と不振に陥った。精彩を欠き、緩慢な動きも目立ってきた時期だった。原監督は坂本を呼び「凡打の内容を考えろ!」と叱責し、あえて突き放した。悔しさでこぼれそうになる涙を必死にこらえた。そして7月8日の横浜戦。試合前の練習で早出特打を行う。同点の9回、先頭で打席に入ると左翼席に、シーズン2度目となるサヨナラアーチ。「ずっと迷惑をかけていました。内角の甘いボールを狙っていたら来てくれた。結果的に最高の形になりました」。指揮官も「チームにも、彼にも、大きな一発」と称えた15打席ぶりの劇弾が、坂本を一回り大きくさせたといえる。

19年9月21日のDeNA戦(横浜)で勝利し、14年オフにキャプテンに就任して以来初のリーグ制覇で喜びを爆発させる


 今季の開幕は、世界中を震撼させたコロナ禍で約3カ月間、遅れた。未曾有のウイルスは野球界にも影響を及ぼしたが、開幕前には坂本も苦しめられることになる。6月3日。西武との練習試合を行う予定だった巨人は、急きょ中止を発表。前日の2日にPCR検査を受けた坂本と大城卓三から、新型コロナウイルスの陽性反応が出たためだった。すでに阪神から数名の現役選手の罹患者が出ていたが、巨人の顔である坂本が含まれていたこともあり、その衝撃は大きく、大々的に報じられた。

 2選手とも自覚症状などはなく、2日の西武戦にもスタメン出場していた。医療施設での入院後、ファームでリハビリ。実戦に復帰したのは、開幕まで残り3日に迫った16日の楽天との二軍戦(ジャイアンツ球場)だった。開幕前日に一軍合流。坂本は「いろいろな方々に感謝の気持ちを持ってシーズンを戦っていく」と支えてくれたチーム関係者や医療従事者への思いを口にしている。母の命日とも重なった6月19日の開幕、阪神戦では「二番・ショート」でスタメン出場。シーズン初安打も記録しており、不安など微塵(みじん)も感じさせなかった。やんちゃだった若者は、幾多の経験を経て、動じぬ強さを手にしていた。

 プロ入り後に原監督と出会い、阿部慎之助(現二軍監督)のグアム自主トレに同行し、高橋由伸前監督とも現役時代から食事をともにしたり、治療院を紹介してもらうなどかわいがられてきた。球団のレジェンドたちの系譜を受け継ぎながら、12年には173安打で最多安打のタイトルを獲得。16年には打率.344で首位打者に輝いている。

16年に打率.344、出塁率.433で自身初の首位打者と最高出塁率のタイトルを手にした。遊撃手として首位打者になるのはセ・リーグ史上初


 2000安打を達成した次打席。3回無死一塁でネクストバッターズサークルを出た坂本に、万雷の拍手が送られた。1ボール1ストライクからの3球目。ど真ん中に入った151キロ直球を芯でとらえた。乾いた打球音を残し、打球はグングンと伸びていく。バックスクリーンに飛び込む19号2ランだ。

「(2000本の)次の打席が大事と思って打席に入りました。今後もどれだけヒットを重ねようが、打ちたいという気持ちを持たないといけない。それをあらためて感じました」

10月30日のヤクルト戦(東京ドーム)、初回の第1打席でレフト線二塁打を放ち、通算2000安打を達成。巧みな前さばきの一打だった


 偉大な記録の後に、今度はホームランを打ってしまう。それもいとも簡単に。今や堂々たるチームの顔だ。

「今でも、野球がうまくなりたい。どうやったら、もっと打てるのかを常に考えています。(次の目標に)3000本はもちろんある。でも、まだまだ実感もわかないような数字。2500本をまずは次の目標にして。1本1本、やっていきたいですね」

 円熟期を迎えた坂本は、伝統の継承者から、今度は伝える側の立場へと、変化を遂げていくことが求められている。


PROFILE
さかもと・はやと●1988年12月14日生まれ(32歳)。186cm85kg。右投右打。兵庫県出身。[甲]光星学院高-巨人07(1)=14年

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