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川口和久・金石昭人・小早川毅彦の深掘りトーク! お題「楽しき三篠寮生活」【昭和ドロップ・広島カープ編】

 

[左]小早川毅彦氏 [中]金石昭人氏 [右]川口和久


お化けは普通に出ます?


『昭和ドロップ!』の広島編第2弾! 今回も都内の「寿司かねいし」で、金石昭人さん、小早川毅彦さん、川口和久さんによる昭和カープのディープトークだ。サダさん、命名いただいた『昭和ドロップ!』を今回もお借りします!お題は伝説のカープ選手寮「三篠寮」話だ。
構成=井口英規

──では、ここからが2回目。皆さんの寮生活についてお聞きしたいと思います。

川口 いろいろ出てくる伝説の三篠寮だね(笑)。

──いろいろですか……。

川口 おいおい話していくんでお楽しみに(笑)。

金石 基本は2人部屋でしたけど、川口さんは誰と一緒でした?

川口 俺はマメ(長嶋清幸。80年ドラフト外入団)と一緒。2人で6畳だったね。

金石 狭いし、汚い(笑)。隙間風がピューピュー、階段を上がるときもミシミシミシで、すごい寮でしたよね。これはもう12球団ワーストワンでしょ(笑)。ほんと寝るだけでしたよね。

川口 6畳の部屋って、2組布団を敷いたらもう何も置けないしね。

小早川 そうそう、布団でしたよね。押し入れに畳んで入れて、寝るときはまた出して敷く。さすがに万年床は誰もいなかったです。

金石 クーラーもないから自分で持ち込みでね。部屋を変わるときはクーラーも自分たちで移動させる(笑)。タケも最初は2人部屋だよね。

小早川 僕は定岡さん(定岡徹久。83年ドラフト3位入団)とでした。

川口 テツ(定岡)は優しいからいいよね。

金石 あのころの1人部屋は慶彦(高橋慶彦)さんと北別府(北別府学)さんくらいかな。

小早川 今井(今井譲二)さんも、途中で2階の奥の広い部屋に入ったと思います。でも、僕が寮生活で一番驚いたのは、帰ってきたら祈祷師がいて祈祷していたことです(笑)。お化けが出るって言われてましたよね。

──マジですか。

川口 いや、普通に出てたよ(あっさり)。

小早川 僕と一緒の年に中京高校から入団した紀藤(紀藤真琴。84年ドラフト3位)が、しょっちゅうお化けを見たらしいんですよ。それで、ダジャレみたいだけど、ある日、紀藤が祈祷師を呼んでいて……(笑)。

川口 紀藤が練習に来るとき、いつも目の下にクマをつくってるから、「どうしたんだ?」って言ったら、「昨日の夜も、枕元に着物を着た女性が来て、起こされたんですよ」って。夜寝てると、ドアが勝手にギーって開いて、枕元にその女性が座って「起きて」って言うらしい。紀藤だけじゃなく、木本(木本茂美)さんが夜中の12時過ぎぐらいに「ぎゃー、出たー」ってすごい声で叫んだことがあった。「先輩、どうしたんですか」って言ったら、「今、着物を着た女性が出たんだ」って、同じ人、いや、同じお化けなのかな。

小早川 紀藤は最後、友達になったみたいですよ(笑)。

川口 そうそう、毎晩来るから、怖くなくなったらしいね(笑)。あそこは沼地を埋め立てて寮を建てているので、原爆が落ちたときに水を求めて亡くなった方の霊が出るんじゃないかと言ってた。

お化けと友達になった? 紀藤


──門限はあったんですか。

川口 17時半に練習が終わって、22時半が門限だった。だから18時にメシ食ってから、近くの餃子センターによく行ってたよね。門限ぎりぎりの22時20分まで、みんなでたむろして、ビール飲んで餃子食ってたな。

金石 あのころはお金もないけど、苦しいなりに楽しかったですよね。

──門限は守っていたんですね。

川口 いや、まさか(笑)。寮長が通いだったので、家に帰るのが22時半。寮長の車がブーンって出ていった瞬間に、みんながバーッと出ていく(笑)。朝4時くらいに帰ってきて2時間くらい寝て、それから練習に行く。みんな体力あったよね。

金石 川口さんの部屋が、ちょうど1階の一番奥だったんですよね。

川口 そうそう。寝てると「開けろ」ってバンバン、窓ガラスをたたかれる(笑)。開けるとドタドタ入ってきて、俺の部屋を通ってみんな自分の部屋に行くんだよ。

金石 出掛けるとき、「川口さん、カギ開けといて」って言ってね。

川口 通行料を取ろうかと思ったよ(笑)。でもさ、俺が開けないと、俺の部屋の前のトイレの便器が壊れるんだよ。あそこからみんなが入ってきて、便器に足を置くから。

金石 トイレの窓は狭かったんですけどね。今思うと、あんな狭い窓から、よく体入りましたよね。酔っぱらってるのに。

真っすぐ打てない練習場


慶彦さんにトスを上げてもらっている小早川さん


川口 室内練習場もすごかったよね。寮から歩いてすぐ、喫茶店の前にあった打撃練習場ね。

金石 狭くて真っすぐ打てない室内ですね(笑)。

小早川 建物自体が曲がっているし、狭いから、ちゃんと長方形を取れないんですよね。ただ、自分たちはまだいいんですよ。ほかのチームの選手に申し訳なかった……。

──ほかのチームが使うこともあったんですか。

小早川 市民球場で雨が降ってると、グラウンドが使えないじゃないですか。球場に雨天練習場はないし、仕方ないから相手チームも三篠に来て打撃練習してました。みんなから「カープは、すごいところでやってんな」って何度も言われましたよ(笑)。

金石 伝説の雨天練習場だよね。僕も投げてくれって言われたことがあるけど、ネットがあるから狭くて大変だった。

川口 ピッチャーは寮の中にブルペンがあるんだよね。

金石 中庭に3つくらいありましたね。あと20メートルくらいのランニングができるレーンもあった。

小早川 屋根は投げるところとキャッチャーのところにだけでしたよね。

川口 ブルペンの手前に車を1台だけ止められる場所があって、いつも慶彦さんの真っ赤なポルシェがあったな。

金石 ウエスタンの相手チームの選手も、雨の日は、みんなそのブルペンで投げていました。

小早川 今思えば、室内練習場を持っていないプロ野球球団ってすごいですよね。

金石 大野室内練習場ができたのはあとだもんね。あそこはまた遠いけど。

小早川 早めに試合中止が決まれば行けるんですけど、カープは中止決定まで粘るから、大野までも行けないんです。そうなると、やっぱり相手チームは三篠寮の練習場でやることになるんです。

金石 ああいう生活をしてるから、ほかの球団に行ったら何の不平不満もなかったよね。

川口 なんて恵まれてるんだろうって(笑)。でも、俺らは当時、それが当たり前だと思っていたからね。

小早川 プロなのにこんな規則があるの? っていうのもありましたね。

金石 まず“集合”があったのにびっくりしたね。PLを出てやっと集合から解放されたと思ったら、プロでもあるのかって(笑)。

川口 1年目は、バス掃除当番と、あとは電話当番もあったよね。

小早川 電話当番は新人が週に1回か2回でした。しきたりがいろいろあって大変でしたよね。マイクじゃなくて、ちゃんと部屋まで呼びにいかなくちゃいけなかったり。

金石 また、しょっちゅう電話がかかってくるんだよね。

小早川 当時は寮の電話番号が『週べ』にも普通に載っていたから、ファンの人からも「誰々さんいますか」ってかかってくるんです。置いたらすぐ鳴るくらいでした。

金石 その中にも身内の人や大事な電話があるから、ちゃんと対応しないと怒られるんだよね。

川口 電話かけるときは3分以内で切れって、慶彦さんに言われたことがあったな(笑)。

小早川 そうそう(笑)。当時、電話が2台あったんですよね。かかってくる黒電話と隣にかける用の公衆電話で。

川口 慶彦さんは、自分が彼女にかけたいから、それを3分って決めてね(笑)。

金石 かかってくるほうの電話でも3分って言ってましたよね(笑)。

川口 彼女から電話が来るからね(笑)。で、3分は俺らだけで、慶彦さんは1時間話しても何の問題もない(笑)。

金石 一度、慶彦さんあての女性の電話を留守だと思って切っちゃったら、そのあと現れて、メチャクチャどやされました(笑)。

大変だったファームの移動


若手時代はグラウンド内外の雑用がとにかく多い[ボール集めをする小早川さん]


小早川 寮以外でも新人はいろいろありましたね。グラウンド整備や打撃練習後のボール集めはもちろん、ボール、ヘルメット、キャッチャーの道具、バットとか、練習に使う荷物も担当が決まって管理していました。

金石 コーチや先輩のスパイクも磨いてたよね、カープは。

小早川 僕がキャンプ行ったときは、山本浩二さん、衣笠(衣笠祥雄)さんの洗濯やスパイク、グラブ磨きを全部やりましたよ、シーズン中もずっと。

金石 それをほかの球団の選手に言うと、ビックリされますよ。そんなことしてるのって(笑)。

小早川 僕はヘルメット担当で、シーズン中、先輩のヘルメットを試合前にベンチのヘルメット置き場に並べて、終わったら、みんなの分があるかを確認してケースに入れてました。

金石 カープは裏方さんが少ないからファームの選手が、練習終わってから一軍の練習を手伝いに行くこともあったね。

川口 当番制だったよね。

金石 そうでした。バッティングピッチャー2、3人にキャッチャー、あと野手は球拾い要員で行ってた。そのときもスパイクを磨いてたな。

川口 試合も5回くらいまで見なきゃいけないんだよな。

小早川 野球教室っていう部屋があってですね。市民球場の正面の一番いい席なんですよ。テレビで見ると、センター方面からの中継カメラで、キャッチャーのちょうど右側にカープの若い選手が映っていました。

川口 オーナー席の横だよね。

小早川 先輩のグラブやスパイク磨きは、僕のあと正田(正田耕三)がやっていました。年齢は同じなんですけど、正田は社会人で1年やってから入団したんで。ただ、正田もすぐ一軍に帯同したわけじゃなかったから、入団して2年くらいは僕がやってましたね。

――一軍に帯同している野手の中で、一番若い選手が浩二さん、衣笠さんのスパイク当番になるんですか。

小早川 カープは年齢ではなくて入団年数でしたね。今の選手は、当たり前のように年齢って言いますけど。

金石 二軍のマネジャーが年数にこだわったよね、伝説の山本兵吾さんが(笑)。社会人も大学生も高校生も1年目は一緒やって、よく言ってた。

小早川 年下の選手なのに、年上の選手を集合させて怒っていたのを見たときはびっくりしました。

川口 その年下の選手って多分あいつだな(笑)。でも、高校、大学は学年がすべてだけど、プロは一軍に上がればすごく待遇が良くて、門限も関係ないし、わがままも聞いてくれる。遠征で重い荷物も持たなくていいからセカンドバックだけになってね。

金石 そうそう。ファームの遠征は大変でしたからね。

川口 全部自分たちで荷物を持って、新幹線や地下鉄に乗って移動したりするんだよな。

金石 荷物が新幹線の中でも邪魔なんですよ。

小早川 置く場所がないから、通路にまとめて置くんですが、ほかのお客さんからクレームが来たりするんですよね。だから、一人当番が横に立って見張っていました。

川口 キャッチャーが一番大変だったよな。防具の入ったでかいバッグと、同じくらいでかい自分のバッグと、さらにバット担いで、担当のボールとかも待って、南海戦なら混んでる御堂筋線にも乗らなきゃいけない。あれを見て、生まれ変わっても、キャッチャーなんか絶対にやらないって思った(笑)。

金石 宿舎でも洗濯しなきゃいけないんで、洗濯機を確保するのも大変でしたよね。大阪なら夕立荘ね。

小早川 夕立荘って、甲子園の近くにあったんですけど、食事が18時からと決まっていて、畳の大部屋で宿泊客全員一緒。道路工事の人とかと一緒に食べるんです。その人たちと一緒にビールを飲みながら、一日の疲れを癒やす(笑)。朝食も一緒でしたからね。

金石 こっちはそれが当たり前だったから、苦にならなかったけど、よそから来た選手はビックリしてましたね。

慶彦さんの鉄拳制裁?


今回の重要登場人物、高橋慶彦さん


小早川 カープは、そのあともずっと二軍は洗濯も荷物持ちも全部自分だったんです。他球団は二軍でも荷物はトラックとか洗濯は別とかなっていたんですけど、広島は断固として、「とにかく全部現場でやれ、それも教育なんだから」と。変えてもらうように選手会で何度も交渉したことがありますが、まったく聞く耳を持ってもらえなかった。最後は12球団の選手会からもあと押ししてもらいましたけど、それでもしばらく変わらなかったですね。

金石 高校生と一緒だったよね。僕はカープには広島商業(高校)の血が流れてるんだと思っていた(笑)。そう言えばタケ、慶彦さんに一回ぶん殴られたことあったよな(笑)。

小早川 ありましたね。僕は昔、太り気味だったんで、よく汗をかいていたんです。当時はまだ水を飲んじゃいけない時代で、水を飲むから汗をかくんだ、だから疲れるんだと言われた時代でした。うがいならいいけど。

川口 よく言われたね、飲んだらバテるぞって。

小早川 そういうことを言われたにもかかわらず、練習中に自分のロッカーに帰って、こっそり飲もうと思ったら、後ろに高橋慶彦さんがついてきて……。

川口、金石 (爆笑)。

小早川 しかも、水ではなくて、コーラだったんですよ。当時は第1安打賞とか、賞を獲ると賞品が出て、そのときはコカコーラ1箱をもらい、ロッカーに行くとコーラがたくさんあったんです。それをプシュッと開けて飲もうとしたら、後ろに人の気配がするので振り向くと高橋さんだった。「お前ー!」ってボコ〜ンと殴られて(笑)。そういう楽しい時代でした。

川口 俺はピッチャーというのもあるけど、慶彦さんにはかわいがってもらったよ。厳しいけど、愛情がある人だったな。厳しいだけの人もいたけど(笑)。

三篠寮の玄関が慶彦さんの即席サイン会になることも


小早川 高橋さんはすごく練習する人でしたよね。どこにこんなにスタミナがあるんだというくらいすごい。試合に臨む前に猛練習して、試合が終わってからも三篠寮に来て練習する。

金石 電話当番してるのに、「ちょっとティー上げてくれ」って言われたことがあった。最後のボール拾いまで手伝いましたけど、いつまでやるの、と思うくらいずっとやってた。

小早川 市民球場のベンチの裏に、スイングするためのちょっとしたスペースがあるんですが、試合中でも、そこでブンブン、ブンブン振ってましたね。鏡を見ながら。

川口 夜中にトイレに起きたら、ブンブン音がするから、行ってみたら、素っ裸の慶彦さんが鏡の前でバットを振ってたこともあった。夜中の3時だよ。多分、飲んで帰ってきてスイングしてたんだと思う。それをしても、次の日の朝、また室内の鳥カゴで打ってから球場に行くしね。すごいなあと思った。でもさ、慶彦さんだけじゃなく、正田もタケも、毎日、あそこで2カゴは打ってから試合に行ってたよな。みんなタフだった。

小早川 練習場は限られたスペースしかないのに高橋さんが使うから、場所の取り合いでしたね。

金石 あのときのカープはプロに入ってからのスイッチヒッターが多かった。高橋さん、山崎(山崎隆造)さん、正田もそうだったしね。もともと練習量が多いうえに、右も左も打たなきゃいけないから、なおさらだったろうね。

小早川 あと、高橋さんはとにかく打撃フォームをよく変える人なんですよ。足を上げて打ってみたり、やめたり、しゃがんだ構えにしてみたり。その都度すごく練習をする。自分のフォームがどうなってるかって、僕たち若い選手に聞いてきたりすることも多かった。それで勉強になったこともたくさんあります。

川口 慶彦さんのバッピ(打撃投手)をやるときが一番緊張するんだよ。ストライクが入らないとメチャクチャ怒られるから、緊張してね。1球ボールになると、顔色が変わるから「ああ、あかん」って思いながら投げていた(笑)。ボールを置きにいくって、こういうことかって思いながら「頼む、ストライクになれ!」と祈りつつ(笑)。

金石 ボール、ボールと続くと「お前、もういらーん!」って言われるし(笑)。

川口 「誰か代わりおらんのかー」ってね(笑)。

金石 僕が入ったときは、もう引退されコーチでしたが、大下(大下剛史)さんはストライク入らないと、バッティングしないで帰っちゃったらしいですよ(笑)。ただ、カープは練習からすごくピリピリしてたけど、あの緊張があるからゲームでもしっかりプレーできたのはありましたね。練習のための練習じゃなくて、試合のための練習だった。試合以上に練習は緊張するからね(笑)。

川口 試合が一番楽しかったよね。きょう試合があるっていうだけで、あの練習しなくていいんだって思った(笑)。練習日は強烈だったから。(続く)


PROFILE
かわぐち・かずひさ●1959年7月8日生まれ。鳥取県出身。鳥取城北高からデュプロを経てドラフト1位で81年に広島入団。3年目の83年に先発の一角を確保し15勝で大ブレークを果たした。86年からは6年連続で2ケタ勝利を挙げた。95年にFAで巨人へ移籍、98年限りで現役引退。

かねいし・あきひと●1960年12月26日生まれ。岐阜県出身。PL学園高から79年ドラフト外で広島入団。7 年目の85年に一軍に定着した。92年日本ハムに移籍し、同年14勝。その後、抑えも経験した。98年巨人に移籍し、同年限りで引退。夫人は元バドミントン選手の陣内貴美子さん。

こばやかわ・たけひこ●1961年11月15日生まれ。広島県出身。PL学園高から法大を経てドラフト2位で84年に広島へ。1年目から一塁のレギュラーに定着。新人王に輝いた。主に四番に座った87年には自己最多の24本塁打を放って、最多勝利打点のタイトルを獲得している。97年ヤクルトに移籍し、99年限りで現役引退。

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