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“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!

張本勲コラム「昔のパ・リーグの選手たちは絶対に負けられないというセ・リーグへの対抗心が強かった」

 

1967年オールスターゲーム第1戦の表彰選手。左から池永正明[西鉄]、筆者、土井正博[近鉄]、長嶋茂雄[巨人]、土井正三[巨人]


東映か中日か


 開幕戦で巨人がプロ野球初の6000勝を達成した。私も1976〜79年の4年間在籍したOBとしてうれしく思う。

 昔はプロ野球と言えば巨人だった。その巨人が属しているのがセ・リーグだったから、巨人戦のあるセ・リーグのほうが巨人戦のないパ・リーグよりも人気が高いのは当然のことだった。まだ交流戦など考えられなかった時代のことだ。

 今の若い選手やファンには想像できないかもしれないが、昔はセとパの人気には信じられないほど大きな格差があった。パの試合は観客席がいつもガラガラだったのに対し、セの試合、特に巨人戦は常に超満員。長嶋茂雄、王貞治というスーパースターがいてテレビ中継もあったから、全国に多くの巨人ファンがいた。

 私はパの東映に入団したのだが、宿舎のテレビで巨人戦を見るたびに、いつか自分もこんな超満員のファンの中でプレーしたいと思ったものだ。私だけではない。パの選手たちは、みんな間違いなくそう思っていたはずだ。特にタイトルを争うような主力選手たちは「どうして同じプロ野球なのに」とセとパの注目度の違いに歯がゆい思いをしていた。野村さん(野村克也、南海ほか)などは、その最たる選手だった。

 のちに私は巨人へ移籍することになり、いつかこんな満員の……という夢が叶うことになるのだが、実は私はプロ入りする際、東映のほかに中日にも熱心に誘われていたから、それが実現していれば最初からセで戦っていたかも分からない。

 高校2年生のときに名将と言われ、当時巨人の監督だった水原茂さんから「うちに来ないか」と誘われたものの、兄から「高校だけは卒業してほしい」と言われて断念したことは以前に書いた。しかし、いよいよ卒業する際になると巨人からの話は立ち消えており、最終的にプロ入りは東映か中日の選択となった。

 私は18歳と若かったこともあり、交渉事はすべて兄に任せていた。その兄が中日を推してくれた。スカウト部長が立派な方で、その方がいる球団に私を預ければ安心だと考えたようだ。しかし、当時の私は鼻息が荒かった。

「プロでやるなら・・・

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