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“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!

張本勲コラム「名前だけのオーナーではない。背番号100を着けた大川博さんは東映を愛した伝説のオーナーだ」

 

背番号100が大川オーナー、30が水原監督、10が筆者


金は出すが口は出さない


 私がプロの世界に足を踏み入れた1959年、入団した東映には大川博さんという名物オーナーがいた。大川オーナーは東京急行(東急)の事実上の創業者である五島慶太さんにヘッドハンティングされて東急に入社。五島さんの右腕として手腕を発揮し、東急がプロ野球チームの「セネタース」を買収した際にオーナーに就任している。その流れから東急フライヤーズ、そして東映フライヤーズでもオーナーを務め、49年にパ・リーグが誕生したときには初代会長も務めた。

 私は大川オーナーによくかわいがっていただいた。好成績を残しても給料が上がらないときなどは、よく大川オーナーのご自宅に押しかけたものだ。お嬢さんたちがいて、私の姿を見つけては「パパ、またハリーが来ているよ!」と大川オーナーに声を掛ける。すると「なにィ、また来とるんかあ」という、そんな親子の会話が聞こえたものだ。私が給料が上がらないんですと訴えると、大川オーナーは「分かった分かった。球団代表にはよく言っておくから」と言ってくれたものだ。オーナーに給料アップを直訴するとは何事かと言うことで、以後は慎んだが、奥さんにもかわいがっていただき、銀座で食事も何度かご馳走になった。

 大川オーナーのご自宅は世田谷区の桜新町にあった。本拠地の駒澤球場とは目と鼻の先。東映の本社は銀座にあり、大川オーナーは会社からの帰り道、試合がある日は必ず駒澤球場に寄って、バックネット裏下にあるオーナー室から観戦されていた。野球好きというよりは、お金のかかるドラ息子たちがかわいかったのだと思う

 東映は前身のセネタースの時代から弱小球団だった。そこで大川オーナーが「Aクラスに入ったらハワイでキャンプをさせてやるぞ!」と発破をかけたところ・・・

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“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!

“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!

球界きってのご意見番として活躍する野球評論家の張本勲氏が週刊ベースボールで忖度なしの喝を発信。球界の未来を考えた提言を展開する。

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