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裏方が見たジャイアンツ

香坂英典コラム 第15回 藤田元司監督で思い出す右手甲の傷

 

81年就任1年目で優勝、日本一となった藤田監督。現役時代は故障で短命に終わったが伝説の大エースだった。監督は81年から83年、89年から92年と2期で優勝4回、日本一2回。筆者は1期目初年度が入団2年目だった


ベロビーチでのアクシデント


 僕の入団2年目の1981年、監督は藤田元司さん、助監督は王貞治さん、ヘッドコーチは牧野茂さんの「トロイカ(ロシア語で3頭立ての馬ゾリ)体制」という名の下、ジャイアンツはV奪回に向けてスタートを切る。

 藤田さんは現役時代に背番号18を着けて、巨人軍の歴史に名を刻んだエースピッチャーだった。プロに入って間もない僕は、それまで藤田さんという大先輩と接することがなかったので、キャンプインのときに、とても緊張しながら顔を合わせたのを覚えている。

 その年の春季キャンプは、例年行われていた宮崎でなく、米国フロリダ州にあるロサンゼルス・ドジャースのキャンプ地であるベロビーチで約1カ月間の海外キャンプを張ることになった。僕はこの異例の海外キャンプのメンバーに選ばれ、憧(あこが)れのアメリカ野球を目の当たりにできるチャンスに胸がときめき、ワクワクしていた。

 ただし、キャンプ参加メンバーの数が限られていたこともあり、僕は練習の準備や打撃投手も頻繁に務め、そのほか、洗濯当番などの雑用もしなければならなかった。年齢から言えば、一番下が鈴木康友、その次がルーキーの原(原辰徳)、そして3番目が2年目の僕だったからだ。

 藤田監督は「球界の紳士」と呼ばれ、僕にはスマートなイメージしかなかった。しかし、一方では「瞬間湯沸かし器」と言われるほどの短気で怖い人というふうに言われており、僕は監督に接するとき、いつもビクビクしていた。

 練習は少数精鋭で効率良くテキパキとメニューがこなされる。当然、フォーメーションプレーなどの練習では僕ら投手もランナーとして借り出された。僕は挟殺プレーの走者をしていて、三塁と本塁の間で挟まれ、タッチをかいくぐった。と、バランスを崩し転倒した際、僕の右手の甲と、捕手・福島(福島知春)さんのレガース部分が接触し、裂傷を負ってしまった。レガース部の小さい留め金が尖(とが)っていて、きれいに皮膚が削られるように負った傷口からは、かなりの出血があった。

 傷自体は幸い浅く、特にトレーナーに報告もせずにいたが、僕の右手を見た藤田監督が「ケガしてるじゃないか? すぐにトレーナーに見せろ」と言ってトレーナーを探してくれた。しかし、その場にはトレーナーは誰もいなかったので、僕は「大丈夫です」と言って、次の練習場へ移動しようした。

 すると、監督が・・・

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