荒っぽいプレーも多かったシピン
大事なものを挟みそう?
今から40年以上も前の大学4年生のころ、プロ野球というあこがれのほかに、僕はアメリカ野球にもあこがれと大きな興味を抱いていた。もし、日本のドラフトで指名がなかったら、アメリカのマイナー・リーグの門をたたくべく、単身渡米しての野球留学の選択肢も自分の進路の視野に入れていた。
その年、1979年8月、アメリカの大学UCLAが「UCLA招待日米親善野球」として、その年の大学日本一のわれわれ中央大学と親善試合を行った。完成したばかりのピカピカの
西武球場で行われた親善試合は9回表まで3対2で中央がリード。僕はその年の全米ドラフトで指名されていた四番・捕手のドン・スロートの2ランホームランの2点のみにUCLA打線を抑え込んでいた。
しかし、9回表二死満塁と、あと一人で勝利という場面、セカンド後方にフラフラッと上がった飛球をライトとセカンドが交錯して転倒。ボールは転々と外野ゾーンへ転がり3者が生還、逆転を許し、大学選手権以降、すべてのオープン戦で無敗だった僕たちは全米トップクラスのUCLAに土を付けることができなかった。
ゲームセットのあとにホームプレートを挟んで両軍が並び、握手を交わす。「香坂、相手チームのベンチでお前を呼んでいるぞ」とチームメートに促され、UCLAのベンチへ行ってみた。UCLAのナインは口々に「OH! ナンバー10! グッドピッチャー、ナイスゲーム!」と言いながら僕の肩をたたいてくれた。どうやら僕のピッチングが評価されたようだ。自軍のベンチに帰ると宮井さん(宮井勝成。監督)が「これから韓国にも寄ってから帰国するらしいが、向こうの監督がお前をアメリカに連れて帰りたいと言っている。でもお前はアメリカなんて行く気はないだろ? まあ、もう断っちゃったけどなぁ……」。
えっ? 行きたい! 僕は一瞬そう思った。でも、断っちゃったんだ……?
しかし、よく考えてみると僕一人で決められることでもなく、大学の編入にはさまざまなクリアすべきこともある。その話は進展せず、その場限りで終わってしまった。ただ、あのとき、もし自分の気持ちを強く貫き、アメリカに渡っていたら僕の人生はどうなっていたのだろう……。
その後も本場アメリカの野球への興味、あこがれは常に僕の心の中に宿っていた。だから僕は、
巨人入団後も助っ人として日本にやってくる外国人選手たちには、いつも人一倍興味を持ち、親身に接し、少しでも彼らの力になれるようにと心掛けていた。
では、今回から何回かに分け、いろいろな意味で僕の思い出となった助っ人たちのエピソードを紹介することにする。
まずは僕がジャイアンツに入団した1980年・・・
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