選手としてコーチとして、そして人として、鋼のように強く、そして優しい心を持った男だ
相次ぐ試練
1982年、高卒新人イヤーに開幕から一軍メンバーに抜擢された
村田真一こと村田チューだが、出場なく二軍落ちとなり、その後、僕がチューの雄姿を目の当たりにしたのは二軍の試合だった。
対
西武戦の9回裏、
巨人の攻撃。相手投手は一軍のクローザーで活躍したベテランの
古沢憲司さんだった。チューはこのとき物怖じせず、古沢さんのストレートを見事はじき返し、サヨナラホームランを打った。もともとパンチ力のあるチューの打撃は定評があったものの、こうして若い選手でありながら、勝負どころで結果を出せる非凡なものを持っている選手として光っていた。
ドブネズミのようになって頑張った努力は少しずつ実り、チューも正捕手の座をつかもうとさらなる意気込みで頑張っていた矢先、右肩の痛みに悩まされる。肩の痛みに苦しんだ末、チューはリスクを顧みず自ら決断し、アメリカへ渡り、右肩の手術を受けた。現在のようにリスクが少なく比較的安全な手術とは言えなかったその時代に、敢えて勝負を懸けた。チューは「あのとき手術を受ける決断せんかったら、その後の自分はなかったんやろうな」とのちに振り返った。チューの右肩の付け根にはぐるりと、そのときの大きな手術痕が残っている。肩痛から這い上がり、チューは90年にベストナインも手中にすると先発マスクも増え、レギュラーの座に座る。しかし、ここでも試練が……。
死球禍……。頭部、顔面へと悲惨な経験が次々にチューを襲う。特に横浜スタジアムでの横浜戦で受けた顔面への死球は計り知れない痛みとの闘いだった。僕は入院中の病床からの報告でトレーナーからその状況を聞かされた。「毎日、痛い、痛いと言っている。チューが可哀(かわい)そうだ」……。
そして、97年にはなんと6歳の娘さんが交通事故で他界……。
あのとき、その情報を聞いた僕は・・・
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